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咲く場所を選ぶ、植物なら。



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『置かれた場所で咲きなさい』
という本はとても売れたらしいです。

この言葉はキャッチーで、
聞いた途端に、
何を言わんとしているのかぴったり分かる。
そこが、危険なところだと感じています。

わかったつもりの思考停止が起こる。

そして、誰しも、ある程度の年齢なら、
そんなシチュエーションを体験しているから、
すぐにその記憶や、あるいは、現在の状況と
結びついてしまう。

そして、こんな風に思う。

「そうだよね〜。」
「会社辞めるなんて、考えるのよそう。」
「もうちょっと頑張ってみよう。」
「なんか。。私、逃げてたのかも」
などなど。。。

人は変化を嫌う。
もっと言うと、
「無意識」は、ありとあらゆる変化を恐がる。
ように出来ている。

だから、この言葉は、無意識にとって都合が良い。

人が、人生の成長の局面にいる時、
必ず葛藤が起こる。

自分自身の中で起こってくる変容への
エネルギーと、
それに対して、
無意識が押しとどめようとする力が
拮抗している。

「いつもの私」
「(うっすら存在しているのを知っているけど)
まだ発現させてない私」
が、
せめぎ合う。

人生で、何度か訪れる。

そんな時に、
この言葉を見ると、

「そうか、やっぱり私、ちょっとのぼせてたのかもしれない」

そして、正直ちょっとホッとするかもしれない。

「チャレンジしなくて済んだ」って。

但し、うんざりする日常は何も変わらない。
もうすっかりうんざりしていて、
自分自身を少しずつ殺しながら
1日1日をやり過ごす、
あの知っている日常へ戻るだけだ。

その戻り方も、
二通りある。

心理セッションや、
自ら葛藤と取り組んだ末に、

「私は、自ら、今置かれている場所で
生きてみることを、選択し直したのだ」。

であれば、

それは、葛藤に留まって、自分自身と対話するプロセスを経て
導き出された選択になる。

「置かれた場所で咲きなさい」と誰かから命令されたのじゃない。

意識して、選んでいる。

もしかしたら、
その葛藤とのプロセスの中で、

自分の、ニーズの核と出会うかもしれない。
或いは、
「今は、判断できない」「だから、あと1ヶ月だけやってその時決める」を、
決めてるかもしれなし、
stayだとしても、具体的な得たいサポートについて明確になったかもしれないし、
それを誰に、どう伝えたらいいかはっきり見えているかもしれない。
何れにしても、
なにかが具体的で、自ら選んだ、という感覚の中にいるのは、
自分自身のパワーを取り戻すことができる。

自分の権威を自分に取り戻す。

が、

一方で、「葛藤」に留まることなく、
自動的な反応で、
つまり、
自分の中の、「恐怖」を動機に持つ方の選択肢を
「無意識に」選んだ結果だったとしたなら、

それは、繰り返されているいつものパターン
かもしれない。

そこに気づくでしょうか。

そんな時に、「置かれた場所で咲きなさい」なんて
したり顔のクソバイス(アドバイス)。

自分自身を救う機会を、
自分自身で摘み取っている可能性がある。

当たり前のことだけど、
植物は、自分に合わない場所では枯れてしまう。

そんなこと、誰だって一度や二度なにかお花を育てた経験で
知っているでしょう。

植物は、咲く場所を選びます。
確実に。

「置かれたのだから、頑張ってここで咲いてみよう」

そんなこと考えるのは、人間だけです。

植物は、ムリしたら死んでしまう。

そして、
植物も、人間も、同じく「生きもの」です。

人間である前に、生きものです。

ましてや、人間には足があるので、
そこが好きじゃない場所なら、立ち去ることが可能です。

より自分にとって心地良い場所を求めて、
移動することが可能です。

自分という生きものが、イキイキと生きていくのに
何が必要か、
何が自分をよろこばせるのか、
栄養になるのか、
どんなサポートが必要なのか、
詳細に知っていくことはとっても大事です。

自分自身を大切にする方の生き方を、
私だったら、選びたい。

向き合うことで、
それが選択肢になります。
選ぶことができます。

咲けない場所で、ただ枯れていくに任せるなんて、
まっぴらです。

ゲシュタルトセラピーをつくった
フリッツパールズが彼の著書の冒頭で言っています。

「人間らしく」と言うけれど、人間である前に
私たちは「生きもの」だ。って。

現在の多くの病理が、「人間らしく生きる」
という考え方にあるのじゃないかと言っています。

すごくざっくりした言い方になってしまうのだけど、
書いてみますが、
欧米人の言う、このパールズの発言がされた時代なら特に、
「人間」の定義は、やはり、
ある一定の宗教の影響が色濃く反映されたものと
想像します。
人間の反対は、獣。という考え方です。
私たち日本人の一般的な概念とは、恐らく少し違います。

最近よく聞く言葉「反知性主義」なんて考え方も
この辺りと重なってきます。

日本人は、自分は「人間であり、生きものだ。」
「人間も、動物も、植物も、同じ生きものだ」
と、すんなり
言えると思います。
その辺に、ちょっと前提の違いがあると思います。

そして、日本人だって日本人の文化や精神性やそれら土壌があって、
「人として生きる」ということに
結構な前提があると思います。
(それに対して自分としてどんな態度でいるかに関わらず)

だから、
様々な文化的な背景や、自分自身のフィルターから
ちょっと離れて、
「生き物として生きている自分」に
時々立ち返ってみることは、
良い機会になります。

「私は、今、生き物として生きている。」
という席に座ってみるワケです。

ゲシュタルトではよく
「有機体」と表現したりしますね。

頭で考えたようには
生きられません。

生きちゃっているという実存の方が、
何よりの証拠です。

あるいは、もし「死にそう」という実存が
あれば、それが事実です。それを見なくては
いけません。

生き物にとって、「死にそう」は、
最大の優先事項のはずです。

が、

生き物としての自分は「死にそう」
人間としての自分は「大丈夫、そんなことない」
こんな状態が起こり得ます。

そんな、股裂状態、葛藤状態、
身に覚えがあるでしょうか?

いわゆる、トップドッグとアンダードッグという状態。

「死にそう」と言う事実に対して
「大丈夫」とは
事実を捻じ曲げています。
捻じ曲げるその動機は何でしょうか?
見てみる必要があります。

そこにあなたのストーリーがあるはずです。
非常に興味のあるところです。
探求するに値する場所です。

もっと言うと、あなたをあなたたらしめる
エッセンスがある場所です。

人生は、体験と選択の連続で、
それによって、
自分自身の「取扱説明書」を増やしていく
プロセスだと思っています。

自己理解が深まれば深まるほど、
自分自身にくつろいで、
自分を表現して、
そして、時にチャレンジする
エネルギーに任せてみることができます。

個人セッションの場は、
自分自身の中へ、ゆっくり丁寧に、
礼を尽くして、優しく、探求しにいく機会です。
この自己理解へのプロセスの場です。

それが、体験的に起こってくる場です。
あなたの探求にご一緒できたら私の幸せです。

個人セッションでお会いしたいです。

*セッションは、医療行為ではありません。



〜個人セッションでお会いしたいです〜

120分間、自分自身に最大の興味と関心を向ける
あなたのための時間です。
あなたがあなたと出会っていく時間になります。

 



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by masumihug | 2016-10-11 06:10 | 個人セッション

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug