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機会の道が開けるまで

2011年に会社員を辞めて、
発想が徐々に徐々に変わっていった。
変わったというより、
「あ、そこまで含めていいんだ」って、
気づいては、範囲を広げていった。

自分の中で、クリエイティビティの質が、むくむくと存在を増してきていて、
それを自由にさせてあげたいと思って会社を辞めた訳なんだけど、
20年も会社員をやっていると、思った以上に、実際には時間がかかるって事、
今実感してる。まずは、それに慣れるまでだって。

例えば、時間がたっぷりあるってことすら、
辞めてすぐは、いちいち思い出さないといけなかった。

行列に並ぶと、すぐイライラした。
でも、次の瞬間、自分の持ち時間が縮まった訳じゃないことに気づく。
すると、身体がほっとして、緩んでいくのが分かる。
そんな繰り返し。

時間に対する感覚が実に大きく変わった。
自分のスピードでやればいいだけ。誰も待たせてないし。

時間は、自分が必要な量だけある。
遅いも早いもない。

行列に並んでいたとしても、何かが損なわれた
訳じゃない。だから、怒ることない。

会社員時代の最後の方は、人の世話なんかしないで
自分の世話をしたいと猛烈に感じていた。
この時は、待たされるとイライラしたよなあ。

自分の世話とは、文字通り、身体や心のメンテナンスから、
自分の欲求を丁寧に聴いて、叶えていくことだった。

だから、辞めてから、それが何処につながるか分からないけど、
思い立ったら、手をつけてみた。

会社員時代、買っていたモノで、できそうで、やってみたいモノは、
自分で作ってみようと思った。

酵素のジュース、手間のかかる料理、梅仕事、作ってみたかったケーキやお菓子、
友達の誕生日プレゼントに紙粘土でフィギュア、絵手紙、ふんどし、などなど。

だって、時間はたっぷりある。
とにかく、一日中愛を込めて、丁寧に暮らしたかった。
自分からアウトプットされるものに愛を込めたかった。
これについては、一年前にブログに書いています。

過去の記事「会社を辞めた理由」

その中にパンがあった。

白神こだま酵母っていうのを、随分前に買っていた。けど、
パンなんて時間のかかるもの、会社勤め当時の私にとっては絶対ムリだった。
でも、憧れてたんだ。

作ってみた。
レシピ通り。

それは見事なパンが焼けた。
びっくりした。味も最高だった。

もう、パン焼きが大好きになって、来る日も来る日も焼いていた。
美味しいから食べてって、誰かれ構わず配って。

みんなに褒められて有頂天。

そんなことをしていたら、ご縁があって、あるお店で
私のパンを売ることになった。
パンを焼き始めて翌月の終わりには、私のパンが店頭に並んだ。

お友達、知人からもオーダーをいただいたりして。
美味しいって言ってもらうのが何よりうれしかった。

何の気負いもなく、喜びだけで行うこと。
それを分かち合うこと。
そういう事には機会の道が一瞬にして開くんだなー。
スピ系の人がよく言う事だけど、ホントだって思った。

でもね、コレは何?って、一方で感じたよ。

私は、パン屋になりたい訳じゃない。

私は、カウンセラー、セラピストとしてやっていきたくて、
第2のキャリアを始めるはずだったのに、そっちの方は、
はっきり言って、進み方はこんなスピード感はなかった。

加速しないってことは、向いてないって事?
疑ったよ。

その後、2012年の4月から、私は滋賀県へ移住する決断をして、
このパン焼きを終了しました。

そして、滋賀で、それはそれは濃密な体験をすることになります。
それが今、セラピストとしての私に、本当に役立つ経験になっています。
体験を伴った知識となって、今私の表現を支えてくれています。

今私ははっきりと言える。
取り扱うものによって、その責任の及ぶ範囲によって、
かかる時間がある。しなきゃいけない体験がある。
人生は、あなたに必要な経験をさせる。

だから、時間はある程度かかるし、かかっていい。
むしろ、かけた方がいい。納得がやってくるまで。

もし、私が、あの時、パン屋になるって決断したとしても、
あのままじゃ、なれない。あの責任の範囲においてのパン焼き
ならば、人生はさせてくれるけど。

何であれ、人が世の中へ表現していくことは、愛情表現なのだなって
今は感じる。愛と責任は表裏一体だから、その人が、責任を果たせる
範囲でそれは起こる。

言語化、意識化、されていなくても、身体は解っている、
ブレーキとアクセルのあんばいを調節している。

例えば、ある人が、世界に実現したい事があって、そのために弁護士
になるかもしれない。その資格、その在り方があってはじめて、その人は
責任を持って社会に表現していけると感じる。かもしれない。

人により、表現し、それを担保する、それの感覚、やり方は違う。

話しがちょっとそれたかも。

言いたかったのは、人生の後半で起こる真の個性化の過程で、
何処へつながっているか分からなくなる時がある。

自分が、どこにいるのかさえわからなくて不安になる。

ロールモデルがないから、自分で藪を掻き分け進むようだ。
一歩踏み出したら、そこは、地面じゃなくて崖かもしれない。
そこを踏み抜いて下に落ちて、やっとのことで着地して、でもね、もしかしたら
そこが、今の自分にぴったりの場所かもしれない。

それが、自分の人生を生きるということかと、今は思っています。
それを、通常は、リスクと言うかもしれない。
だから、私は、誰に対してもオススメする訳じゃない。
レジリエンスがあるかどうか見極める事もとっても大事。

そういう時に、自分の身体は知っている。
時に、ジェットコースターのようだけど、自分の身体は知っています。

自分の中に、知っている(いつもの)自分と、まだ充分に発現されていないけど、
表に出たがっている自分がいる。
そして、その二つの自分を、ちょうど、昔のお弁当箱のおかずと
ご飯の仕切りのように、調節してくれる、そういう機能が、人間には備わっている。

だから、身体に聴くのが一番分かりやすい。その仕切り、ディバイダーは、時に、自分を邪魔
しているように感じる時もある。けれども、ちょうどいいあんばいで、自分に
経験をさせるように調節もしてくれている。

自分の、潜在的な能力、本当に在りたい在り方、それを表にしようと
した時、恐怖を感じるのならば、それは、身体が多分、まだじゃない?と、
力量・経験不足だと言っているのかもしれない。

身体が、心地良い方へ、行けばいい。
必要な事が起こるから。

もう一回言う、時間は、あなたが必要な量だけある。

それを感じる事ができれば、何より自分が頼もしく思える。

私は、私の経験から、そう思います。

ちょっと私は玉砕し過ぎかも(笑)しれないけど、
自分の内なる正しさに適う人生を生きるという、納得を
少なくとも今は感じて、とても幸せにいさせてもらっています。

そして、もちろんまだまだ途についたばかり。
これからも、藪を掻き分けて、進むと思います。

そしてね、おもしろいことに、会社員だったときの、『普通である』
ことの訓練が、また今の私を助けてくれているという事実。

なにも無駄なことはないと、今実感を伴って言えます。

そして、もしあなたが、これを読んで感じるところがあるなら、
是非シェアしたいです。

長文、読んでくれてありがとう。


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by masumihug | 2013-03-08 04:44 | 所感

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug