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禅とゲシュタルト

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北鎌倉にある円覚寺。

わたしは、前からここが大好きです。
ここのお寺のことをまるで知らない時から、
ここが好きでした。

誰かに鎌倉をご案内するなんてことが時々あるけれども、
そんな時は、「円覚寺境内にある仏殿の中」を、
待ち合わせ場所にすることもよくありました。
夏の暑い日も、仏殿の中はひんやり涼しくて観音様が
やさしく見守ってくれています。

昨年、こちらのお寺とのご縁を深めることが、
少しだけ叶ったように思っています。

昨年の円覚寺夏期講座に参加したことがきっかけ。

そのことを、当時クライアントさま向けのメールニュースに書いています。
その内容を、少し整えて、こちらに載せます。

禅とゲシュタルトは、重なる部分が大きいと、思っています。


2017年6月に書いたメールニュースの一部を引用します。

〜〜〜

北鎌倉にある円覚寺で毎年開催されている夏期講座に初めて参加しました。
私は、初日の三時限目に登壇される谷川俊太郎さんが目当てです。
ところが、一時限目から私は心をつかまれてしまいました。

禅とゲシュタルト

円覚寺派管長の横田南嶺老師
(現代の名僧と言われている方だそうです。知らなかった!)が、
禅の公案集「無門関」の中の一つをお話くださいました。

その時、その内容に入るより
何より前に、

腰骨を立て、呼吸を整え〜」と始まりました!

これはまったくゲシュタルトのベーシックなプラクティスと同じ。

まずは、「自分の席に座り、呼吸に気づきを向ける」。
何はともあれ、そこからしか始まらない。

私は、「管長Yes!」と胸の中で言っていました。笑

胸がワクワクとしていました。
嬉しかった。

ゲシュタルトセラピーをつくったフリッツ・パールズは、
京都の大徳寺で参禅しています。

また、カリフォルニア州エサレン研究所で
ゲシュタルトを発展させたディック・プライスは仏教を学んでいて
そのエッセンスをゲシュタルトに注いでいます。

つまり、ゲシュタルトは、禅からも学んでいます。
だから当たり前と言えば当たり前。

南嶺老師は、「心、命、身体、実感」と言っておられ、
ゲシュタルトで気づきを向けていく方向とぴったりと一致します。

心や思考、だけではなく、
身体感覚も含めていく姿勢。
そこが何より、肝の部分です。
他のアプローチから一線を画すところです。

三つの不思議、そして、共通点

そして、南嶺管長老師の流れるような講義が始まります。
まだ、「無門関」には入っていません。

横田南嶺老師のこの言葉には自然と込み上げる感覚を覚えました。

何もないところから自分という生命が生まれた不思議、
そして、多くの人と関わり今日まで生きて来たことの不思議、
そして、今ここでそんな命たちが出会っていることの不思議。

その三つに、心から手を合わせました。

大きな大きな会場、大方丈。
すし詰めです。
話し声がするわけではありませんが、ざわつく感じがあったのに、
その瞬間から静寂に覆われました。

そして、その場に居合わせた600人以上の人たちと、
その一瞬やさしく挨拶が出来たように私は感じました。

この後からこの空間が心地良い場になったと感じたのは
私だけではないと思います。

お互いのスペックなど何も知らずとも、
私たちには少なくとも必ずその三つの共通点があって、
出会うにはそれだけで十分。

お互いに称え合って、ねぎらい合うことが出来る。

例えばわたしが、
セッションという場で、
まったく見ず知らずの方をお迎えするなんて、
普通に考えたら恐ろしいこと大それたことだと思うんです。
だけど、禅の世界、私にとってはゲシュタルトの姿勢が、
それを勇気づけてくれます。

そこからなら、出会いを始めることができる。

普段わたしが触れている世界が、
この円覚寺で起こっている。

これは、驚きであって、よろこび以外のなにものでもありませんでした。

〜〜〜
引用終わり


禅宗というものを、知っているつもりになっていましたが、
全然でした。お恥ずかしい限りです。

この夏の衝撃的な出会いから、
わたしは、禅の世界に強く惹かれるようになりました。

南嶺老師の禅の提唱が行われる
日曜日の坐禅会に時々参加するようになりました。

ほんの少し齧っただけのわたしが言うのもおこがましいのですが、
禅宗、この場合、臨済宗の中の円覚寺派にしかわたしは触れては
いませんが、他の宗教との決定的な違いは、
自らの中に答えを探しに行く。というところです。

もっと言ったら、
「答え」というものを見つけることが目的ではありません。

肝心なのは、答えより「問い」だと思っています。

修行僧の方たちは、老師と禅の公案を問答する時間を持ちます。
その他の時間は、作務と言って日常の作業をします。
炊事洗濯お掃除を昔ながらの道具で丁寧に行います。もちろん、
坐禅をします。また、お経をあげます。

そして、その全ての時間において「問い」を携えて日常を
行なっています。

「問い」と共に生きて、生きる中で出会う「答え」の断片を
拾って、また師の元で問答をするのだろうとわたしは推測しています。

この「問い」というのを、私たちの日常に当てはめれば「葛藤」
ということになると思います。

修行僧の方たちが行なっている日常と、私たちも変わらぬ状況を
持っている。と、思うんです。

人生を自分にとって意味あるものにするとしたら、
或いは、
人生を逃さずに生きたいと望むなら、
そこに気づくか気づかないか、に、かかっている
と、想像します。

修行僧の方たちは、やがて修行を終え和尚という立場を得て
それぞれの役目へ着いて行きます。

「修行に目的を持たない」というのもありますけれども。

禅宗の優れたところは、
人々をとことん信じている姿勢。
と言えるのじゃないかと思っています。

それは、ゲシュタルトの姿勢に通底します。

何か「問題」に対して、「解決」という構図が生まれ易いのは、
昔から同じ。

そして、人類はそういう風にできています。笑

「問い」あるいは、「葛藤」を携えて生きることで、
体験に誘われます、試行錯誤が起こります。

それ自体が人生であると、結果的には知ることになるのだけれど、
葛藤の中にあるときには、一刻も早くそこから脱出したいと願います。

外へ答えを求めます。
或いは、答えをポンと渡してくれる人を探します。
そういう人をグルとして崇めてしまうこともあります。

だけれども、禅は、または、ゲシュタルトは、
「それとも(葛藤とも)一緒にいることができるよ」と教えてくれます。

そして、一緒に居るやり方を持っています。
そして、その恩恵も体験させてくれます。
ただし、本人がそれは決めるんだよ。と、言っています。

これは、知恵であって、哲学であって、実践だと思います。

と、こんな風に言うは易し。

やって行くのは、難儀なことも多々あります。

だから、仲間が必要。
だから、師が必要。

自分にとって相性の良い師との出会い。
また、仲間、コミュニティとの出会い。は、
この実践を更に更に深めてくれると思っています。

わたし自身の体験からもそう言えることです。

禅、坐禅、マインドフルネス瞑想、などが
流行りもののようになっています。

人々がそこに可能性を感じているのだと想像します。
いまどきの人たちは感性が優れています。

もう外へ答えを求めることは十分だ、
もうグルなんか要らない、
自分自身に可能性を感じ取っている、
そして、そこにアクセスしたい!

そんな声が聞こえるようです。

*念のために書いておきます。
わたし自身は、特定の信仰を持ってはいません。
この文章は、禅宗を勧めるような意味はありません。
また、わたしの提供するものに、特定の宗教観を込める
ようなことはあり得ません。




*トップの写真は、円覚寺で見つけたもみじの種。まるで竹とんぼ。



〜個人セッションでお会いしたいです〜

120分間、自分自身に最大の興味と関心を向ける
あなたのための時間です。
あなたがあなたと出会っていく時間になります。

     




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by masumihug | 2018-01-08 18:11 | 個人セッション

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug