『令和』は筆で書くのがいい
2019年 04月 02日
初めて
令和とタイプしている。
これほど、フォントによって
印象が違う文字もないかもしれないと
今日、なんどもなんども繰り返し見た
ニュースの映像を見ながら思っていました。
NHKのニュースで、
官邸で取材していた方(高井正智さん)が言っていた言葉が
とても印象的だった。
菅官房長官が、令和の文字を掲げた時、
集まっているプレスの大勢の人たちの手が止まったと。
そんなことは、現場にいてとても珍しいことだと。
「一瞬の静寂」と言った高井正智さん。
ご自身もその場に居た一人として、
一斉に瞬間に起こったその静寂のその時に
何かを体験した。と、言わんばかりに、
高鳴る感じが、伝わってきた。
安倍首相の談話の中で、
長い日本の歴史の中で、変わっていくものがある一方で、
日本人の中に変わらずにある価値というものがある。と、
表現していた。
私は、その静寂の瞬間に起こっていたこともまた、
それと通ずるものがあると感じた。
「令和」と書かれた額が掲げられた時、
その場にいた皆が一斉に動きを止めたのは、
それは、ただの文字の羅列じゃないのを
私たちは、知っているからだと思う。
面構え、身体、ボディ、姿、を、見る必要がある。
更には、醸し出すエネルギーや、
纏っている景色のようなものまであるだろう。
だから、
その瞬間にその文字と出会っている。
どーんと、身体に感覚が起こってくる。のに気づく。
そして、己のそれに耳を澄ます。
聞いてみている。
それに、ちゃーんと時間と空間を取ること。
多分、高井さんが言っていた「静寂」の一瞬に
それぞれの人の中で起こっていたのは
そういうことだと思う。
それを私は想像して、本当に胸が震えた。
この出会った瞬間に、自分自身に起こること。
それに耳を澄ますこと。
ここに、実は、人間は、絶対の信頼を持っているんだと思う。
本来的に。
生き物として。
そして、日本人は、その信頼がとても篤いのだと
私は、思っているんだ。
そして、それを時々、言語化する。
語彙が豊富な人もいれば、そうじゃない人もいる。
だけど、なんであれ、今日は、
己の身体全体で、みんなが、それぞれに「令和」に
初めて出会った。
出会ってみる をやったと思う。
そして、割と、多くの人が、「うん、いいじゃない?」って
感覚を自分自身の身体で確かめたように思った。
典拠となったのが、万葉集ということで、初めての国書だということを聞いて
また、胸が熱くなった。
これは、少し、私の想像がたくましすぎるのかもしれないけれど、
長い長い戦争の影響がやっと終わりを告げて、
日本と日本人がようやく自分自身の誇りを取り戻し、さらに、
それを外へ表現することを自分に許した。
或いは、自分への許可として受け取った。
そんな気がした。
その誇りとするその質の、なんと繊細なことか。
なんと、奥ゆかしいことか。
あまりに、顕微鏡レベルなもので、そして、言語にし難いもので、
だけど、それは、確かに手応えとして掴んでいると言えるもので、
だから逆に、許可し難いものでもあったよね。と、誰かと言い合いたい感じもある。
けれど、今、いいんだよね。確かに、あるものね。と、言い合える感じがする。
確かに私は、感じている。
それ以上に誇張する必要もなければ、証明する必要もない。
それでいいじゃないか。
そんな感じがしています。
一月後の即位・改元に向けて、
良い土台が出来上がったなあと思えました。
生前退位というのは、いいものですね。
今日は、会った人に「おめでとうございます」という言葉が
自然に口をついて出てくる。相手の人も、自然にそれを受けて、返ってくる。
今日は、自分が日本人として生まれて良かった。
と、心から思いました。
理にかなっているものは美しい。
自然界とそっているものは、美しい。
日本人の身体の中には、そのセンサーが張り巡らされて
あるんだと思うんだ。
(あ、日本人だけじゃないとは思うけれどもね。)
その繊細さ、感受性のひだ、を、
常にONにしながら現代の日常を生きるとしたら
それは身体がいくつあっても足りない。ってことになる。
だから、
いい塩梅に、センサーをOFFにしたり、調整をする必要がある。
それは、調整であって、ダメ出しであるべきではない。
自分自身の繊細さや感受性、感性を、自分の誇りにしていく道がある。
良きものだと捉えて、選択的に使っていく道がある。
と、私は思っている。
ゲシュタルトの気づきのアプローチは、
その良いナビゲートをしてくれる。
個人セッションでお会いできたらうれしいです。
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by masumihug
| 2019-04-02 06:48
| 所感