登戸の出来事から
2019年 06月 01日
〜記事より
「たまたま事件を起こした人がひきこもりだっただけなのに、犯罪とひきこもりがイコールに語られるような報道が多くされています。犯罪を犯したということと、ひきこもりをつなげて考えないでほしいです」
《事件の背景が丁寧に検証され、支え合う社会に向かう契機となることが、痛ましい事件の再発防止と考えます。特定の状況に置かれている人々を排除したり、異質のものとして見るのではなく、事実に則り冷静に適切な対応をとっていただくようお願い申し上げます》 〜記事より
登戸で起きた出来事
尊厳 ということについて
考えています。
どの人も 背景と歴史を携えてそこに生きている
これは、当たり前の事実
そして、
その人のそれに思いを馳せる別の人が居る ということが
その人の尊厳を 確かにあるものとして そこに立ち上がらせる 存在させる
ことを可能にすると 思う。
その人についての人となり、その人の歴史や文化 いわば コンテンツ
その内容をすべて知っている必要はない
ただ 人にはコンテンツがある という前提で いたい
そして、その中身がなんであれ、それは大切に扱われるものだ。という前提で いたい
時々人は、 その人本人が
自分自身のコンテンツに 価値を見出していない というときがある。
無価値である と 言っている時がある。
自分で自分の尊厳を粗末に扱う素ぶりをすることがある。
そういう時も、私は その前提でいたい
誰かのフィードバックが、自分の自分自身への信頼の担保になる。ってことがある
のを知っている。
私自身がそうである。
一つを知るには、二つが必要。だったりする。
自分を知るのに、誰かが必要 だったりする。
つまり
逆に言うと、自分だけで自分自身の尊厳を守り切ることは 難しい時があると思う。
本当に、ここに 己のこの身体に 守るものがあるのか?
自分にそんな価値があるのか?
本当に見失い易い。簡単に。
この 事件を起こした人が 自分自身で「自分はひきこもりだ」と
自認していたかどうかは ちゃんと出会って、話してみなければ いけないこと。
だが、もうそれはできない。確認できない。
それに、「ひきこもり」の定義というのもとても曖昧だと思う。
ただ、確かに他者との接触を絶つような状態が長くあったことは確かのよう。
で、あるならば、
その人のその状態と起こした事に「関係がない」はずはないと思う。
むしろ、その「つながり」や仕組みを 見ていくことで
この出来事を 社会として 学びに出来ると思う。
そういう意味で、《 》で囲まれた部分の 文章は、その通りだと思う。
この出来事は、
とてもインパクトがあった。
社会にインパクトがあったのはもちろん。
私個人に、大きな影響を与えているのに気づきます。
思考の層、感情の層、ゲシュタルトのセラピストとしての層、
私の様々な層が、反応しているのに気づきます。
今朝、自分自身の日課としている「自分の席に座る」を行った時
亡くなったお二人、そして、事件を起こした人、それぞれに思いを馳せる
時間をとりました。
ニュースで散々使われている 中学生時代の学生服姿の彼の写真。
51歳の彼が どんな姿をしていたかはわからないけれど
その中に、この中学生の彼が ずっと生きていただろうと勝手に想像した。
その中学生の彼に 話しかける ことが出来た。
それは、私自身の為に 必要な時間だった。
この出来事について、書きたいことは ものすごくある。
私自身のテーマ そして、私が ゲシュタルトのセオリーを用いて
自分自身とコンタクトしてきたプロセスや 探求の歴史 と
重なるところがあるからです。
そして、だからこそ 私に出来ることがあるだろうか
どんなふうに 私が このテーマで 誰かと 世の中と
関わっていけるだろうか? 関わっていきたい。 と
思っています。
これは、私としては ちょっと珍しい 内側の動き があることに
気づいています。
はぁ〜
呼吸〜〜
呼吸が 胸に入ってくる そして 出ていきます
ありがとう
*この記事の続きを書きました。
個人セッションでお会いできたらうれしいです。
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by masumihug
| 2019-06-01 14:16
| 所感