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『安楽死を遂げた日本人』 宮下洋一 著

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昨夜10時過ぎに帰宅し、
ポストに届いていたこちらの著書を
着替えもそこそこに読み始め、
読みながら飲もうと淹れた紅茶が
そのまま冷めていくのに気がつきながら
結局一口も飲むことなく
読み終えた。

先日のNHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』の「彼女」
小島ミナさんが、そもそもこの本の著者である宮下洋一さんに
コンタクトをとったことがこの番組が出来るきっかけになっている。
(ミナさんが読まれたのは、『安楽死を遂げるまで』。)

番組は、敢えて淡々と(その姿勢を保っているのが素晴らしいのだけど!)
編集され 私たちに投げかけている。

その余白があることで 私たちが
自分の中に響く 余韻や共鳴や波紋と共に居ることを促してくれた。有難い。

そして、この本は、
そんな 私の 余韻、共鳴、波紋、思考、好奇心、推測、想像、
などに 助けをくれる。


ミナさんに割かれているボリュームはやはり大きいのだけど、
同時期に宮下さんと関わりのあった
やはり安楽死を求める他の二人のケースについても丁寧に描写されていた。

宮下さんは、敢えて自分自身の中に起こる
疑問や違和感や ざらっとする何か も 混ぜる。
ことで、本全体のメッセージにバランスが生まれている。

何も見逃していない 感じがするし、
同時に、責任の範囲を繰り返し明確にすることで、
この方の眼差の正確さと、人肌の優しさの両方を感じる。
それが、健全な感じを受ける。

この自と他、我と汝、境界線 というもの
もっと言うと、応答する能力 と言う意味においての 責任 そして、選択 は
ゲシュタルトの文脈のとても重要なところ。
繰り返し繰り返し、強調したいところ。

で、あって、この「死」を語るのに 必須の土台だと思う。

日本の中で、この議論を深めていくときに、
この理解なしには、危険を孕む と感じる。

と、同時に、勿論、日本だって、歴史と文化の中に死生観がある。
自と他の境界線や責任 と 共に、我々の持っている死生観とはどんなか?というのを
明確にしていく作業も必要だと思っている。それは、土台になる。

ちょっと大きなビルを建てる為の基礎工事だ。


話を戻さなくちゃ。

だから、私は、この本を、安心して自分の興味を解き放つように
読み進めることが出来ました。
宮下さんのスキルとメタスキルの両方ゆえのこと。
(短期間にこのボリュームの取材〜作品化〜出版 すごいな〜。おかげで私はタイムリーに手に出来たんだよね。)


読み終えて、主に二つの新たな興味と仮説を持ちました。

一つは、
世界は、この「安楽死」や「人の最期」について、二つの流れに分かれたのだなと知ることができました。

その一つの潮流は、この「安楽死」。主に、オランダやスイスの流れ。
そして、もう一つの流れは、「緩和ケア」であるということ。主に英国で発展しているそうで
その英国側から安楽死側を見ると、この分野においてそちら側は「後進国」だという評価になる。ということを知りました。

これには、なるほど〜 と 唸りました。

と、同時に、世界は、もうそんな議論の進み具合なワケですね。
先進国とは、「人の最期」についてのオープンな議論がある国って条件を入れて良さそうに思いました。

さっき言ったように、
日本では、まだまだこの人の最期をどう考える?って土台さえない。と、私個人的には考えている。
日本人が劣っている とは、思っていない。

それから、西洋と日本の「恥」の定義と その自分にとってのインパクト 
何を恥とするか? 自我との関係 も どこか関係がありそうに思う。
embarrass ・ ashamed とか 英語には明確な区別がある。

そして、「安楽死」を語るには、「緩和ケア」を知る必要があるんだなと 知ることができました。

知ることができました。し、同時に、自分自身の最期への選択肢が増えた安堵感のような感覚を体感したのは確かなことです。

この感覚は、大事だな。

そして、もう一つ。
先に書いたように「二つの新たな興味と仮説を持ちました」の
もう一つは、

もしかすると、この「緩和ケア」ではなく何故「安楽死」を選ぶのか?って議論と関係がありそうに思うのだけど、
「死」をもコントロールしたい という 傾向を持っているのか? という 私の中に生まれた仮説です。

これは、自分自身にも問いかけられます。

こんなことも含んで来そうな気がします。
つまり、私が結婚を全て途中で終わりにしたのも
子供を持たなかったのも、
「人生」というのを、もしかすると、
己で見渡し、かつコントロール出来るものにしておきたい。と、
どこかで いや、体全体で、もしかすると、全ての細胞に命令をかけていたのじゃないか?
という、仮説です。

人生っていうのは、様々な人たちと関わって、時に翻弄されて、
予期せぬことになっていくもんで、
どこか、えいや!ってその濁流がどこへ流れ着くかは
わからずとも、事実を優先させ、濁流に乗ることがある。

いや、乗るとか乗らないとか、選択もなかったわ〜って言う人が居る。

私は、どちらかと言うと、「選択的にいたい」と思う方だった。
人生においては、選択肢が全部見えているワケじゃないのにね。。苦笑

これは、「自分への信頼」の篤さ が 関わっていると思う。

ゲシュタルトをやっていて、その厚みは増したのだけど、
恥ずかしながら、それもほんの少しだ。という自覚はある。

この「選択的でありたい」平たく言えば 「自分で決めたい」は、裏返せば、
自分を信用できない
他人を信用できない
コントロール可能な範囲であるかどうかが重要だ。
と言う、「恐怖」が 動機だ。
とも、言える。
ってことを、知っている。

「ってことを知っている」と言えるような範囲まで
気づきに入れることが出来るようになった自分を
「よくやったね」「ゲシュタルトが助けになったね」と 褒めてあげることにするけど。苦笑


「彼女」ミナさんも、
病との付き合いの中で、自分の人生は「孤独」と一緒にいるのだ、それで何が悪い、
のように、かつて豪語していた自分を
浅はかだったな〜と言うように振り返り、
彼女独自のユーモアを交えて吐露しているのだけど、
私の仮説との重なりを感じるんだ。

と言うことは、「安楽死」は、やはり、ちょっと、「せっかちな死」
なんだろうか?

「死」への ゆっくりしたプロセス という「生」の中では、
自分自身との対話に耐えられるか? と、想像する。

それは、未知の領域で、事前にコントロールは不可。
ということは、コントローラーにとっては最大の恐怖の大魔王 ということになり得る。

コントローラーにとってこれまでの人生においても、
最大の厄介な相手は自分自身だからね。


だけど、本当にそうかどうかは
そこに入ってみなければ分からない。

何を幸せに感じるか なんて分からない。

それに、事実、ミナさんも、この病と共にいるという未知の領域に入って
お姉さんたちとの交流 自分自身の再構築が起こっている。


そんな、仮説も持ちつつ
この領域を 眺めてみよう という気になっている。

いずれにしても、
私にとって「死」は、子供の時から一貫して興味のあるテーマであったんだ。

だけど、
どうそこへアプローチして良いか分からなかった。

ゲシュタルトに信頼を置いたのは、「死」もタブーじゃないって確信したからだったし。

この安楽死というテーマは、そこ「人の最期」「私の最期」へ安全にアプローチする綱のような気もするな。

この記事は、本当に、雑記です。
だけど、内側で 上がってくるものを
言葉にして、出すことは 必要で助けになります。
私の健全さを 保つことが出来ます。

もし、読んでくださったなら
ありがとう。

心から感謝の気持ちです。

そして、このテーマに向き合えると思うと
私によろこびが あるのに気づきます。


#安楽死を遂げた日本人
#彼女は安楽死を選んだ



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by masumihug | 2019-06-21 16:03 | 所感

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug