人気ブログランキング |

2018年 06月 19日 ( 1 )

このところ、
続いている事件。

一つの事件からのインパクトがさめやらぬ内に、
次の事件がかぶさって起こって来ている印象があります。

そして、別々に起こっている事件のようであって、
どこか、通底するものがあるようにも
感じています。

ニュースの報道は、従来通りの表現で事件を評価
しているのだけれど、受け取る側、わたしたちは、
もう少し繊細に、知的に、感じ取っているようにも思う。

日本人にはもっと洞察する力があって、
それを思い出しているように感じる。

ただ単に、加害者を、もっと言うと、人を殺した人物を
ただみんなして、断罪するだけでいいのか。というふうに。

その小さな違和感の中に、策がありそうな予感がします。

もちろん、命を奪うことは許されないこと。
ここには、同情の余地はない。
そして、犠牲になった方に対しては、心からの哀悼の気持ちです。
合掌


新幹線の中での殺傷事件の記事を読んでいて、
いろいろなことを思う。

この事件には、
様々な要素が含まれている。
ように思う。

わたしの中に断片がたくさん浮いていて、
そのほんの一部、書いておきたいなぁと思っています。

よかったら、共有させてください。

相変わらず前置きが長いです。


シートを盾に車掌さんが、
加害者に近づいて(ここはさらっと書かれているが、
信じられない程に勇気の要る行為だと思います)

「やめてください」
「話を聴きますから」

と、声をかけたという。

このような、声のかけ方も含めて訓練を行なっているという。
すごく考えられているし、実践的な訓練だと想像しました。

そして、まさに訓練の賜物。
この車掌さんの命がけの場面を想像すると、胸が熱くなります。

そして、
加害者、小島一朗は、もしかすると、
こんなふうに声を掛けられたこと、
人生で、なかったのじゃないか
と想像したのです。

記事には、絶句し、おとなしくなった、とあります。

「対話」というのは、「聴かれて」初めて成り立ちます。

そして、日常で、私たちは、
実はあまり「聴かれて」ないかもしれないです。
この人だけでなく。

ゲシュタルトのワークの中で、
「聴く」という時間を非常に大事にします。

この「聴く」には、
自分が自分を聴くも含まれます。

ワークの中では、
特に、エンプティチェアの場面での対話では、
クライアントの内側にある葛藤の
一方ともう一方にそれぞれ席を作って対話を行うことがあります。

そんな時、
どちらか一方は、
席を作られること、
この世に存在を許される事自体、
が、初めてだったりします。

だから、それだけで、かなり満たされることもあります。

当然、初めて存在が許され、
この世に形を与えられた存在は、
誰かに「聴いてもらった」経験がありません。

はじめ、ことばの表現が苦手です。

ことばを発したことがない。
その機会を与えられたことがない。
長いこと存在をないことにされていて、
だけど、ひっそりと、クライアントの中で
息を潜めるように生きながらえています。

この小島容疑者のことは、よく知りませんが、
実の父親の言葉の断片を別の記事で目にしたところ、
そんな存在として生きてきたようにも想像しました。

そんな存在が、溜まりに溜まっていたエネルギーを放出する機会となりました。
一番、良くない出方です。

人間一人のエネルギーって大きいです。

いくらパッとしない人物だからって、
それは見た目とは関係ないです。

正面から、止めようとしたってもうムリでした。

今回、彼は初めて、
自分自身の禁を破って、
「止める」をやめて、衝動を止めずに、
自己表現を優先する機会になったかもしれません。

これは、小島が、幼い頃からずっとずっとされて来たこと。
を、破った体験になったかもしれません。奇しくも。

その彼の試みに、身体を、貸してくれたのが彼の方。
他の人の安全を守って、小島に機会を提供してくれた。

なんということでしょうね。

このふたりの出会いにも、
なにか、縁を感じます。

あまりに違う二人だけれども。
それは、「一見」であるかもしれないね。

そして、
次は、

止めてください
話を聴きますから

は、新しい関わり方だった。かもしれないと想像します。

そして、
小島の、もしかしたら、心からの願いだったかもしれない。

頭の中では、たくさんおしゃべりしていたかもしれない。
たった一人で来る日も来る日も。

だけど、誰一人として彼を、一人の大人の男性として扱ってくれたことがない。
ダメだ。役立たずだ。と、言われ続けてきたかもしれない。
から、自分も自分を粗末に扱うことしか知らない。
そもそも、それが粗末な扱い方だと知らない。

さあ、話を聴きますと言われて、
彼に何が起こったか、私は知りたい。

目の前の人は、
まさに命を懸けて、
自分に向き合ってくれている。

まさに、座布団が置かれた瞬間だ。
存在が許されていなかった存在が、この世に時間と場所を得た瞬間だ。

彼は初めて、自分が、世界に何を言いたいのか、どんな世界を見たいのか、
が、無いということに気づくかもしれない。

頭の中でやってきた自問自答は、
自分がダメなのか?
社会がダメなのか?
誰のせいなのか?だけだったかもしれない。

初めての自己表現が、殺人になってしまった。
その後で。

あなたの口から何が出てくるのかな。

殺人を実行に移す前に、
殺したい気持ちがあることを、誰かとシェアできていたらよかったねと思う。

それを、聴いてゾッとしない人と出会えていたらよかったと思う。

そんなゾッとすることを口に出せる機会があったらよかったと思う。

その自己表現をダラダラと出来る時間と場所があったらよかったと思う。

その上澄みを、すべて口に出してしまった後に、
一番底のところに、それがある。

そこに、その人の、ニーズの核があると知っている人と、
出会えていたらよかったねと思う。

だから、その人がどんなに恐ろしいことを口にしようが、
付き合ってくれる。

その言葉が出てくるその源泉に、
その人のニーズの核があることを知っている。

そこに触れれば、ひとたび、そこに触れれば、
人は、自分自身を信頼出来ると知っている。

そここそが己だと、わかるから。

とても残念だ。
でも、小島はまだ生きている。

このプロセスが起こる可能性はあると思う。

加害者を排除するだけでは、
片手落ち。

このテーマは、人類全体に横たわっている。

そして、
恐らくは、
小島の胸の奥の奥にあるのは、

俺はここに居る。
誰かとともに居たい。
誰かと、コンタクトしたい。
コミュニケートしたい。

だと、想像する。

恐らくは、生き物すべてが共有している
願いだから。

仮説だけど。

多くの人が、ニーズと解決策を混同していると、
パールズは言っている。

自分自身のニーズを、丁寧に丁寧に
掘っていけば、必ずある。

怒りの下には必ずニーズがある。

なければ、怒りは起こらないんだもの。

上に被っている土や腐った葉っぱや
いろんなものを掻き分けていくのは
自分一人では心細い。

下には何があるか保証はないわけだから。

だけど、一緒に居る人だけでも、
そこに必ず何かある。と、信じていることは出来る。

こんなセオリーが人類にある。

と、私は、信じています。


と、自己表現とコミュニケーションの違いについて、
書こうと思ったのだけど、
そこまで行き着きませんでした。

また、それについては、書きたいです。
大事なことだから。

少しだけ書くと、
自分自身を明確にしていくことで、
初めて、コミュニケーションが優しくまた易しくなる。

そして、自分自身の明確になったニーズを誰かと共有することは、
誰かとのコンタクト、誰かの深い部分にまで届いていく可能性がある。

ということ。

ゲシュタルトの気づきのアプローチは、
こんな領域までカバーします。

ここまで読んでくださって
ありがとうございます。






個人セッションでお会いできたらうれしいです。



いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村







by masumihug | 2018-06-19 20:41 | 個人セッション

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug