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カテゴリ:所感( 108 )

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昨夜10時過ぎに帰宅し、
ポストに届いていたこちらの著書を
着替えもそこそこに読み始め、
読みながら飲もうと淹れた紅茶が
そのまま冷めていくのに気がつきながら
結局一口も飲むことなく
読み終えた。

先日のNHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』の「彼女」
小島ミナさんが、そもそもこの本の著者である宮下洋一さんに
コンタクトをとったことがこの番組が出来るきっかけになっている。
(ミナさんが読まれたのは、『安楽死を遂げるまで』。)

番組は、敢えて淡々と(その姿勢を保っているのが素晴らしいのだけど!)
編集され 私たちに投げかけている。

その余白があることで 私たちが
自分の中に響く 余韻や共鳴や波紋と共に居ることを促してくれた。有難い。

そして、この本は、
そんな 私の 余韻、共鳴、波紋、思考、好奇心、推測、想像、
などに 助けをくれる。


ミナさんに割かれているボリュームはやはり大きいのだけど、
同時期に宮下さんと関わりのあった
やはり安楽死を求める他の二人のケースについても丁寧に描写されていた。

宮下さんは、敢えて自分自身の中に起こる
疑問や違和感や ざらっとする何か も 混ぜる。
ことで、本全体のメッセージにバランスが生まれている。

何も見逃していない 感じがするし、
同時に、責任の範囲を繰り返し明確にすることで、
この方の眼差の正確さと、人肌の優しさの両方を感じる。
それが、健全な感じを受ける。

この自と他、我と汝、境界線 というもの
もっと言うと、応答する能力 と言う意味においての 責任 そして、選択 は
ゲシュタルトの文脈のとても重要なところ。
繰り返し繰り返し、強調したいところ。

で、あって、この「死」を語るのに 必須の土台だと思う。

日本の中で、この議論を深めていくときに、
この理解なしには、危険を孕む と感じる。

と、同時に、勿論、日本だって、歴史と文化の中に死生観がある。
自と他の境界線や責任 と 共に、我々の持っている死生観とはどんなか?というのを
明確にしていく作業も必要だと思っている。それは、土台になる。

ちょっと大きなビルを建てる為の基礎工事だ。


話を戻さなくちゃ。

だから、私は、この本を、安心して自分の興味を解き放つように
読み進めることが出来ました。
宮下さんのスキルとメタスキルの両方ゆえのこと。
(短期間にこのボリュームの取材〜作品化〜出版 すごいな〜。おかげで私はタイムリーに手に出来たんだよね。)


読み終えて、主に二つの新たな興味と仮説を持ちました。

一つは、
世界は、この「安楽死」や「人の最期」について、二つの流れに分かれたのだなと知ることができました。

その一つの潮流は、この「安楽死」。主に、オランダやスイスの流れ。
そして、もう一つの流れは、「緩和ケア」であるということ。主に英国で発展しているそうで
その英国側から安楽死側を見ると、この分野においてそちら側は「後進国」だという評価になる。ということを知りました。

これには、なるほど〜 と 唸りました。

と、同時に、世界は、もうそんな議論の進み具合なワケですね。
先進国とは、「人の最期」についてのオープンな議論がある国って条件を入れて良さそうに思いました。

さっき言ったように、
日本では、まだまだこの人の最期をどう考える?って土台さえない。と、私個人的には考えている。
日本人が劣っている とは、思っていない。

それから、西洋と日本の「恥」の定義と その自分にとってのインパクト 
何を恥とするか? 自我との関係 も どこか関係がありそうに思う。
embarrass ・ ashamed とか 英語には明確な区別がある。

そして、「安楽死」を語るには、「緩和ケア」を知る必要があるんだなと 知ることができました。

知ることができました。し、同時に、自分自身の最期への選択肢が増えた安堵感のような感覚を体感したのは確かなことです。

この感覚は、大事だな。

そして、もう一つ。
先に書いたように「二つの新たな興味と仮説を持ちました」の
もう一つは、

もしかすると、この「緩和ケア」ではなく何故「安楽死」を選ぶのか?って議論と関係がありそうに思うのだけど、
「死」をもコントロールしたい という 傾向を持っているのか? という 私の中に生まれた仮説です。

これは、自分自身にも問いかけられます。

こんなことも含んで来そうな気がします。
つまり、私が結婚を全て途中で終わりにしたのも
子供を持たなかったのも、
「人生」というのを、もしかすると、
己で見渡し、かつコントロール出来るものにしておきたい。と、
どこかで いや、体全体で、もしかすると、全ての細胞に命令をかけていたのじゃないか?
という、仮説です。

人生っていうのは、様々な人たちと関わって、時に翻弄されて、
予期せぬことになっていくもんで、
どこか、えいや!ってその濁流がどこへ流れ着くかは
わからずとも、事実を優先させ、濁流に乗ることがある。

いや、乗るとか乗らないとか、選択もなかったわ〜って言う人が居る。

私は、どちらかと言うと、「選択的にいたい」と思う方だった。
人生においては、選択肢が全部見えているワケじゃないのにね。。苦笑

これは、「自分への信頼」の篤さ が 関わっていると思う。

ゲシュタルトをやっていて、その厚みは増したのだけど、
恥ずかしながら、それもほんの少しだ。という自覚はある。

この「選択的でありたい」平たく言えば 「自分で決めたい」は、裏返せば、
自分を信用できない
他人を信用できない
コントロール可能な範囲であるかどうかが重要だ。
と言う、「恐怖」が 動機だ。
とも、言える。
ってことを、知っている。

「ってことを知っている」と言えるような範囲まで
気づきに入れることが出来るようになった自分を
「よくやったね」「ゲシュタルトが助けになったね」と 褒めてあげることにするけど。苦笑


「彼女」ミナさんも、
病との付き合いの中で、自分の人生は「孤独」と一緒にいるのだ、それで何が悪い、
のように、かつて豪語していた自分を
浅はかだったな〜と言うように振り返り、
彼女独自のユーモアを交えて吐露しているのだけど、
私の仮説との重なりを感じるんだ。

と言うことは、「安楽死」は、やはり、ちょっと、「せっかちな死」
なんだろうか?

「死」への ゆっくりしたプロセス という「生」の中では、
自分自身との対話に耐えられるか? と、想像する。

それは、未知の領域で、事前にコントロールは不可。
ということは、コントローラーにとっては最大の恐怖の大魔王 ということになり得る。

コントローラーにとってこれまでの人生においても、
最大の厄介な相手は自分自身だからね。


だけど、本当にそうかどうかは
そこに入ってみなければ分からない。

何を幸せに感じるか なんて分からない。

それに、事実、ミナさんも、この病と共にいるという未知の領域に入って
お姉さんたちとの交流 自分自身の再構築が起こっている。


そんな、仮説も持ちつつ
この領域を 眺めてみよう という気になっている。

いずれにしても、
私にとって「死」は、子供の時から一貫して興味のあるテーマであったんだ。

だけど、
どうそこへアプローチして良いか分からなかった。

ゲシュタルトに信頼を置いたのは、「死」もタブーじゃないって確信したからだったし。

この安楽死というテーマは、そこ「人の最期」「私の最期」へ安全にアプローチする綱のような気もするな。

この記事は、本当に、雑記です。
だけど、内側で 上がってくるものを
言葉にして、出すことは 必要で助けになります。
私の健全さを 保つことが出来ます。

もし、読んでくださったなら
ありがとう。

心から感謝の気持ちです。

そして、このテーマに向き合えると思うと
私によろこびが あるのに気づきます。


#安楽死を遂げた日本人
#彼女は安楽死を選んだ



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by masumihug | 2019-06-21 16:03 | 所感

NHKスペシャル
「彼女は安楽死を選んだ」
2019年6月2日(日)
午後9時00分~9時49分


すばらしい番組でした。
この「彼女」の発したどのことばにも
頷いている自分がいました。

たくさん エコーしたいことばがあった うちの一つ
番組の冒頭で 彼女が 言っていた言葉。

どう死ぬか を 選択することは
どう生きるか を 選択することと 
同じくらい 大事なこと


多様な「生」がある
ということは 多様な 「死」の選択肢が必要。

その実現には
成熟した社会が必要。

成熟とは、
たくさんの議論があった上で 法が整備されて
複数の選択肢があった上で 個人が選択できて
個人のレベルでも 自分の選択に責任を持てる
また、そういった選択が物珍しくないほどに
人の選択というものが尊重されている 
そんな環境があることを想像します。

その一つのモデルが スイスにある
ということを この番組を通じて 
「彼女」の選択を通じて
知ることができました。

スイスのこの団体のウェブサイトを貼り付けておきます。

assisted voluntary death
という考え方 です。

*このAVD(Assisted Voluntary Death) をここで
実行するには、必要な条件があります。
主な要件:・堪え難い苦痛がある・明確な意思表示ができる・回復の見込みがない・治療の代替手段がない など


「彼女」の最後の言葉は
「すごく 幸せだった」。

見守ってくれているお姉さん二人に そう告げたお顔は
とても穏やかだった。


自分が 自分でなくなってしまう

ありがとう を言えなくなってしまう人の気持ちが分かりますか?

こんなふうに 言っていた「彼女」は

自分が自分であるうちに 選択をして
ありがとう と 言えるうちに
大切な人たちに「ありがとう」「(一緒に居てくれて)幸せだった」と 伝えて 人生を終えていった。

だからこそのあの表情なのだろう と 思えた。

このスイスの団体を主宰している医師が
重要なことを言っていた。

自分が死にたいからと言って
家族や周りの人を傷つけてはいけません。

そうだよね。
遺される その人を愛している人たち は
その人が亡くなった後 その人なしに 生きていかなくてはならない。

だから、よく話し合うことが 必要だ と この医師は言っている。

人が一人 生を終えるってことは
本当に大きなことなんだ。

もちろん、それは、人が一人生きている ってことが
大きいからに他ならない。


ところで、このlifecircleのウェブサイトに
「自殺の防止」に寄与するということが書いてあった。

スイスも 人口比での自殺率は世界平均の上に
ある国だそうです。

この彼女も、自分の尊厳が自分自身で保てなくなることを予想して
自ら命を絶つことを試みたことがあったそうです。


家族や愛する人たちとじっくり話しをして
感謝を伝えて、ちゃんとさよならを言って
医師立ち会いのもと 
苦しまずに死ぬことが出来る。としたら?

電車を止めることなく むごい死体を晒すことなく
また、密かに 誰も知らない場所で 死んで 死体も発見されない
そんな 死に方を選ぶ必要はない としたら?

そもそも 「私 自分で自分の人生の終わりを決めたいと思っているの」
って、オープンに 話せるとしたら?

こんな選択肢が存在する社会においては
もしかすると
うんと想像力をたくましくした場合
「死」や「自死」というものの捉え方が ちょっと今とは違うのじゃないだろうか?
と、想像しました。

もちろん、この AVDが理想的ですね!!と言ってる訳ではないですよ。
もちろん、たくさんの議論が必要です。

でも、もう何年にも渡ってたくさんの自殺者がいるっていう事実のある日本において
それを「止めよう!」だけじゃあまりに思考停止じゃないか?と思っていたのは確かなんです。

そして、「止めよう!」って何年もやってたって一向に減らない事実がある訳で。

それが起こるには、やっぱり意味がある訳ですから。

「死」や「自死」についての オープンな議論が 必要じゃないか と思うんです。
いろんな場所で。

そういう意味でも、この番組は世の中に素晴らしい一石を投じたと思います。

「彼女」が、安楽死について(日本で)みんなが考えて(話して)ほしい と言っていた。

この言葉以上に、彼女の振る舞い 言動 番組の中で体現していたものによって 
私はとても影響を受けた。ものすごく インスパイアされました。

彼女に感謝の気持ちです。
番組を作ったNHKスペシャルの人たちの勇気や丁寧さに感謝の気持ちです。



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by masumihug | 2019-06-13 01:14 | 所感

登戸の出来事から


〜記事より

「たまたま事件を起こした人がひきこもりだっただけなのに、犯罪とひきこもりがイコールに語られるような報道が多くされています。犯罪を犯したということと、ひきこもりをつなげて考えないでほしいです」

《事件の背景が丁寧に検証され、支え合う社会に向かう契機となることが、痛ましい事件の再発防止と考えます。特定の状況に置かれている人々を排除したり、異質のものとして見るのではなく、事実に則り冷静に適切な対応をとっていただくようお願い申し上げます》  〜記事より



登戸で起きた出来事

尊厳 ということについて
考えています。

どの人も 背景と歴史を携えてそこに生きている
これは、当たり前の事実 

そして、
その人のそれに思いを馳せる別の人が居る ということが
その人の尊厳を 確かにあるものとして そこに立ち上がらせる 存在させる
ことを可能にすると 思う。

その人についての人となり、その人の歴史や文化 いわば コンテンツ 
その内容をすべて知っている必要はない

ただ 人にはコンテンツがある という前提で いたい
そして、その中身がなんであれ、それは大切に扱われるものだ。という前提で いたい

時々人は、 その人本人が
自分自身のコンテンツに 価値を見出していない というときがある。
無価値である と 言っている時がある。
自分で自分の尊厳を粗末に扱う素ぶりをすることがある。

そういう時も、私は その前提でいたい

誰かのフィードバックが、自分の自分自身への信頼の担保になる。ってことがある
のを知っている。
私自身がそうである。

一つを知るには、二つが必要。だったりする。

自分を知るのに、誰かが必要 だったりする。

つまり
逆に言うと、自分だけで自分自身の尊厳を守り切ることは 難しい時があると思う。
本当に、ここに 己のこの身体に 守るものがあるのか? 
自分にそんな価値があるのか?

本当に見失い易い。簡単に。

この 事件を起こした人が 自分自身で「自分はひきこもりだ」と
自認していたかどうかは ちゃんと出会って、話してみなければ いけないこと。
だが、もうそれはできない。確認できない。

それに、「ひきこもり」の定義というのもとても曖昧だと思う。

ただ、確かに他者との接触を絶つような状態が長くあったことは確かのよう。

で、あるならば、
その人のその状態と起こした事に「関係がない」はずはないと思う。

むしろ、その「つながり」や仕組みを 見ていくことで
この出来事を 社会として 学びに出来ると思う。

そういう意味で、《 》で囲まれた部分の 文章は、その通りだと思う。


この出来事は、
とてもインパクトがあった。
社会にインパクトがあったのはもちろん。
私個人に、大きな影響を与えているのに気づきます。
思考の層、感情の層、ゲシュタルトのセラピストとしての層、
私の様々な層が、反応しているのに気づきます。

今朝、自分自身の日課としている「自分の席に座る」を行った時
亡くなったお二人、そして、事件を起こした人、それぞれに思いを馳せる
時間をとりました。

ニュースで散々使われている 中学生時代の学生服姿の彼の写真。
51歳の彼が どんな姿をしていたかはわからないけれど
その中に、この中学生の彼が ずっと生きていただろうと勝手に想像した。

その中学生の彼に 話しかける ことが出来た。
それは、私自身の為に 必要な時間だった。

この出来事について、書きたいことは ものすごくある。

私自身のテーマ そして、私が ゲシュタルトのセオリーを用いて
自分自身とコンタクトしてきたプロセスや 探求の歴史 と
重なるところがあるからです。

そして、だからこそ 私に出来ることがあるだろうか 
どんなふうに 私が このテーマで 誰かと 世の中と 
関わっていけるだろうか? 関わっていきたい。 と
思っています。

これは、私としては ちょっと珍しい 内側の動き があることに
気づいています。


はぁ〜
呼吸〜〜

呼吸が 胸に入ってくる そして 出ていきます

ありがとう


*この記事の続きを書きました。





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by masumihug | 2019-06-01 14:16 | 所感

瀧さんみたいな人望

瀧さんが釈放された。

頑張れ!ダンボールに手書きの文字の
ボードを持参してメッセージを伝えようとしている人や
応援の言葉を投げかける人がいた。

必要とされている

今まで長く長く表現活動してきたことへの
賛同の表れなんだろうなと思う。

仕事関係者や、直接関わった人は、彼に対して
持っている印象はとても良くて、一致している。

人望の厚さを感じる。

おまけにご近所の評判も良いらしい。

そして、高校生の時からずっと一緒にいる
相棒さんが熱烈なツィートをしているのを見れば
この人が瀧さんにどれだけ支えられていたか分かる。

一方で、
瀧さんは、瀧さんをどう支えていたんだろう。

これは、芸能人だけの話じゃないと思う。

普通に社会を構成する人として、
周囲の信頼を得ていくこと、
自分自身が居やすい環境を作っていくこと。
あなたが居て欲しい って言われること。

これは、本当に大変なこと。

何が大変って、自分が自分と格闘すること。
自分が自分と折り合いをつけること。
だと、私自身は思う。

30代くらいの時に真剣に考えていたのは、
何か合法的に自分自身の抑えきれないエネルギーを
落ち着かせる薬ってないか?ってことだった。

大事な人と衝突してしまう
大事な関係を壊してしまう
ことで、手からこぼれて行ったものがたくさんあった

瀧さんと同列に語るには、全然レベルが違うんだけど

でも、瀧さんの人望を支えるものの一つに、
今回の問題になった薬の貢献があったのだったら?

って、
思わないこともない。

もちろん、
私は、薬物を推奨しているわけじゃない。

でも、
この薬のおかげで、
頑張りがきいた
疲労困憊するような現場でやさしさを維持できた
期待されている役回りを果たせた
面倒臭くならずに、丁寧に出来た
腐らずに居ることで、事態が好転した また 周囲が勇気づけられた

かもしれない

こんな人が場に一人居てくれたら、
本当に助かる
感謝される

逆に言えば、人はそんなに自分自身の肉体と精神を
高めに一致させて、良い状態で、一定には保てない

恐らくは、人生かけてそれを学んでいるんだから

だから、
薬を使うことで、人生の学びを
ショートカット出来ることは確かだとは思う。

ただ、人類の仕組みはとっても上手く出来ているから
やっぱりどこかで学んでいく時がくるように思う。

ショートカットしたつもりでも、カットした部分を
やはり端折ることは出来ないんだ。

私は、多くの人が、
自分自身の持て余すエネルギーとどうやって行けるか?
という探求を、人生でやっていると思っている。

多くの場合が、そのエネルギーと戦う、それを抑え込む、消す、ないことにする、
というアプローチを取る。

世に溢れているノウハウ本は、要はそういうことを書いているように見える。

そして、多くの人は、ドラッグへの抵抗はある。
どうするかというと、お酒、甘いもの、炭水化物 を摂取する。

私は、これを火消しと呼んでいる。

一瞬、火が消える。

火消しの方法は、他にもある。
自分のエネルギーの暴発が起こりそうな気配を感じたら、
別の強い刺激を注入すること
いわゆる、〜依存と言われている 
そういう方法。

激しいね

疲れる し、
後味は、とても似ている。


落語の「死神」を思い出す。
蝋燭の炎が消えると、その人の命が果てる。

この火消しは、小さな殺人とも言える。
自分で、自分自身を、ちょっとずつちょっとずつ殺している。

これは、悲しい。
これは、悔しい。

だから、時々、無性に腹が立つ。
でも、自分では、目の前の誰かに腹が立っていると勘違いしている。
実際のところ、腹が立っているのは、己のこの行為であったりする。


瀧さんのことは、瀧さんにしかわからない。

瀧さんにとっては、タバコの一服くらいの軽さのようにも見える。

でも、自分のことは、もっともよく知らないことであったりする。

それを知っていく過程が、人生だったりする。

そういう意味でも、
今回の瀧さんのことは、
物事を自分の延長上に感じさせてくれている。

「これは、大なり小なりわたしのことだ」と、
どこか、日本の人たちの胸の奥の方へ届いているような気がする。


合法的な薬うんぬん と、30代くらいの時に言っていた私自身は、
40歳を過ぎて、ゲシュタルトに出会って、
本当に助かった。

「ショートカットする薬はない」とわかったこと
遠回りに見えて、近道なこと
ゲシュタルトは、薬ではないが、その生きる時の道を行く乗り物である
ってことが、今、わかっていること です。

私を殺さない、そしてまた、ほかの誰かも殺さない 
やり方がありそうだとわかって来たのは
私にとっての朗報でした。

その乗り物は、好奇心で動く。
そして、私のエネルギーがエネルギー。笑

そして、そもそも、そのエネルギーの源に、こんな素朴な願いがあることがわかっています。

私は、コンタクトがしたい。
私は私と、そして、目の前の人と。

心で、声で、肌で、思考で、
どんな方法であっても良い
その時できる、最善の方法が見つかると信じている。

そんな瞬間が人生に持てる、ということが
わかって来ました。

これは、私のよろこび。


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by masumihug | 2019-04-05 06:58 | 所感
初めて
令和とタイプしている。

これほど、フォントによって
印象が違う文字もないかもしれないと
今日、なんどもなんども繰り返し見た
ニュースの映像を見ながら思っていました。

NHKのニュースで、
官邸で取材していた方(高井正智さん)が言っていた言葉が
とても印象的だった。

菅官房長官が、令和の文字を掲げた時、
集まっているプレスの大勢の人たちの手が止まったと。

そんなことは、現場にいてとても珍しいことだと。

「一瞬の静寂」と言った高井正智さん。
ご自身もその場に居た一人として、
一斉に瞬間に起こったその静寂のその時に
何かを体験した。と、言わんばかりに、
高鳴る感じが、伝わってきた。

安倍首相の談話の中で、
長い日本の歴史の中で、変わっていくものがある一方で、
日本人の中に変わらずにある価値というものがある。と、
表現していた。

私は、その静寂の瞬間に起こっていたこともまた、
それと通ずるものがあると感じた。

「令和」と書かれた額が掲げられた時、
その場にいた皆が一斉に動きを止めたのは、
それは、ただの文字の羅列じゃないのを
私たちは、知っているからだと思う。

面構え、身体、ボディ、姿、を、見る必要がある。

更には、醸し出すエネルギーや、
纏っている景色のようなものまであるだろう。

だから、
その瞬間にその文字と出会っている。

どーんと、身体に感覚が起こってくる。のに気づく。

そして、己のそれに耳を澄ます。
聞いてみている。

それに、ちゃーんと時間と空間を取ること。

多分、高井さんが言っていた「静寂」の一瞬に
それぞれの人の中で起こっていたのは
そういうことだと思う。

それを私は想像して、本当に胸が震えた。

この出会った瞬間に、自分自身に起こること。
それに耳を澄ますこと。

ここに、実は、人間は、絶対の信頼を持っているんだと思う。
本来的に。
生き物として。

そして、日本人は、その信頼がとても篤いのだと
私は、思っているんだ。

そして、それを時々、言語化する。
語彙が豊富な人もいれば、そうじゃない人もいる。

だけど、なんであれ、今日は、
己の身体全体で、みんなが、それぞれに「令和」に
初めて出会った。

出会ってみる をやったと思う。

そして、割と、多くの人が、「うん、いいじゃない?」って
感覚を自分自身の身体で確かめたように思った。

典拠となったのが、万葉集ということで、初めての国書だということを聞いて
また、胸が熱くなった。

これは、少し、私の想像がたくましすぎるのかもしれないけれど、
長い長い戦争の影響がやっと終わりを告げて、
日本と日本人がようやく自分自身の誇りを取り戻し、さらに、
それを外へ表現することを自分に許した。
或いは、自分への許可として受け取った。

そんな気がした。

その誇りとするその質の、なんと繊細なことか。
なんと、奥ゆかしいことか。

あまりに、顕微鏡レベルなもので、そして、言語にし難いもので、
だけど、それは、確かに手応えとして掴んでいると言えるもので、
だから逆に、許可し難いものでもあったよね。と、誰かと言い合いたい感じもある。
けれど、今、いいんだよね。確かに、あるものね。と、言い合える感じがする。

確かに私は、感じている。
それ以上に誇張する必要もなければ、証明する必要もない。
それでいいじゃないか。

そんな感じがしています。

一月後の即位・改元に向けて、
良い土台が出来上がったなあと思えました。

生前退位というのは、いいものですね。

今日は、会った人に「おめでとうございます」という言葉が
自然に口をついて出てくる。相手の人も、自然にそれを受けて、返ってくる。

今日は、自分が日本人として生まれて良かった。
と、心から思いました。

理にかなっているものは美しい。
自然界とそっているものは、美しい。

日本人の身体の中には、そのセンサーが張り巡らされて
あるんだと思うんだ。

(あ、日本人だけじゃないとは思うけれどもね。)

その繊細さ、感受性のひだ、を、
常にONにしながら現代の日常を生きるとしたら
それは身体がいくつあっても足りない。ってことになる。

だから、
いい塩梅に、センサーをOFFにしたり、調整をする必要がある。

それは、調整であって、ダメ出しであるべきではない。

自分自身の繊細さや感受性、感性を、自分の誇りにしていく道がある。
良きものだと捉えて、選択的に使っていく道がある。
と、私は思っている。

ゲシュタルトの気づきのアプローチは、
その良いナビゲートをしてくれる。



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by masumihug | 2019-04-02 06:48 | 所感
「誰かと居る」を学ぶ

これは、生きているあいだ中の
学びなのだろうと
想像しています。

苦学にすることも出来るし
拷問にする人もいるでしょう

自分独自のアートを編み出していくのもあれば

誰かのHow toを借りて、それで一生やり終えるのもありなのかもしれません

じゃあ、「生」が終わるとどうなるんでしょうね?


筋肉の緊張が、その人を形作っている
あるいは
その人が、自分のアイデンティティを維持するのに
特定の筋肉を、特定に緊張させている

とも、言えると思います。

そして、
その人が死を迎えると
つまり
筋肉が弛緩していく
その人は、キャラクターを一つ一つ解いていく

ということにも、なります。

それは、

一切の社会的な関わりから降りていく

呼吸が止まって
心臓が止まって
脳が、止まって

いく

アイデンティティが、解かれていく
いらなくなっていく

ここからは、
誰も証明出来る人はいないけれど

たった一人
死へ向かう探求をする

それまでは、「誰かと居る」為に築き上げたもの、
を、
全部下ろして
たった一人で、生まれて初めての「死」を探求する

いや、
もしかしたら、
生まれる前に出てきた世界へ戻る?
のなら知っているのかもしれない?

そして、寿命を全うするうちに
忘れてしまったその「一人」というところを通過するのだろうか?

この「死」への探求に、どっぷりと集中していける
誰に気兼ねなく
もう、なんの言い訳をする必要もないのだ

焼かれるまでの間
こんな時間帯があるような気がする

家族がいる人は、
こんな時周りに、泣いている人や
「目を開けて!」って身体を揺すられることがあるのかもしれないけれど
死への探求に集中している人のプロセスを邪魔する必要はない気がする

ただ、静かに 
ただ、共にそこに居て
この人の探求をする空間を共にするということを
してみたい

私が、その本人であるのなら、
そんな死と死の後の時間帯を過ごせるのなら
なんと贅沢なことかと思う。

死へ入っていくその人の周りの空間を埋めずに
その静寂を埋めずに
時間を埋めずに
邪魔せず
ただそこに居ることが出来る人たちが
共に居てくれたら それは本当に幸せだな
それは、ものすごく成熟した場面だな

ただ、何れにしても
それは、どう生きたか によるのだろうな。

どう生きたか
とは、

何に価値を置いて
そして、自分にはどう出来たか?
他にどんな可能性があるか?
どう関われるか?

その模索の足跡の一つ一つ
だな

うん

はぁ〜

こきゅう〜 をしています

今の私はこんなふうに
考えています




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by masumihug | 2019-03-07 01:03 | 所感

作品の背景をネットに当たったところ、
こんなふうに書いてあった。


裸の赤毛の女性が真実の手鏡を手に持ち、

その鏡を鑑賞者の方へ向けている


彼女の上部には

ドイツの詩人フリードリヒ・シラーの「歓喜に寄す」からの引用文、


「もし、あなたの行いと芸術で

数多くの人びとを満足させることができないならば、

少数者を満足させるために行為と芸術を行え。

多数の人が喜ぶことは悪いことなのだ。」

が記されている。



多数の人が
喜ぶことは
悪いことなのだ

この言葉が、
鏡から私へ映し返されます。

つい、多くの人に理解されようと思ってしまう。
多くの人にとってわかり易い。かどうか?とか。。
親切かどうか?とか。。

しかし、そうすればするほど、
大元の情熱から離れていくようで。。

また、アクのようなものは削がれるが、
それによって、本来の力を失っていくようで。
そして、実際のところ、正確に伝わらず、
また、それを待っているであろう人の所へ届かない、ようで。。

出来上がったものは、
説明ばかり、注釈ばかり、
結局は、誰も関心を寄せないものになるか

キャッチーなコピーばかりが踊って、暗躍して、しまったり。

そんな気がします。
だから、このブログも、親切設計じゃないかもしれません。
とは、思いながらいるんです。

その塩梅は難しいなぁと思います。

ただ、このことを肝に命じておかないと
と、思っているんです。

クリムトは、自分の作品にこれを書いて、
自分自身のスタンスを明らかにしたみたいです。

1899年のことですよ。

100年以上前に
こういう人がいたってことを
思うと、胸に響くものを感じます。

だけど、クリムトの作品は、100年前も今もその間も
多くの人を惹きつけているのは確か。

クリムト展で、
この作品に会うのを楽しみにしています。



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by masumihug | 2019-01-31 23:04 | 所感

ヌーダ・ヴェリタス


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ヌーダ・ヴェリタス
クリムト展2019 東京都美術館


【作品紹介】生まれたままの姿で、真実のシンボル・鏡を鑑賞者に向ける女性。私たちはその鏡に、過ちや足りない所を含めた、あるがままの自分の姿を見るのでしょうか。1897年の分離派結成直前に構想され、クリムト達が掲げた新たな芸術運動の理想を示す作品です。

((埋め込みが、うまく出来ないのでこんな風になってしまいました。ごめんなさい。))



あゝ。。。

と、ため息でしか、表現のしようがない。

そのあと、

上がってくる水が目に溜まります。


悲しいのじゃなくて、
名前のつけようのない感情です。

ただ、そのままにしておきます。

ありがとう
って、言葉が、喉の奥の方から出てきました。



ツイッター公式の方の、
作品紹介が、素晴らしい。

こんなに端的で、シンプルで、
私に刺さります。

エコーします。



生まれたままの姿

真実のシンボル・鏡

鑑賞者に向ける

女性。

過ちや足りない所を含めた、

あるがままの自分の姿

を、見る


エコー
します。

呼吸〜


ありがとう。


新たな芸術運動の理想 か。。
クリムトの理想。

ぐっときます。


4月に、会える。





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by masumihug | 2019-01-20 14:07 | 所感



怒りにね
私の中にある怒りに
責任を持たなくてはいけない。

この映画を観て、
改めて、
そう思ったよ。

怒りを
麻痺させる為に
していることがある。

自分の中にある
確かにある
一触即発の怒りのパイロットランプ

いつもチロチロとある
それを隠して
何かでいる
社会の中で、人である為に


何かで居る為に
何かで居続ける為に
アルコールとドラッグで、自分の中の火消しをしている人

何かで居る為に
飲み込み続ける人
優しさで嘘をついてしまう人

どちらも持続可能じゃないのだよね

二人の関係が破綻する
というように一見見えるけれど、
破綻するのは、その人が自分を自分じゃなく居させる為に払うその努力

それを、
この映画はこれでもかと見せてくれる


私は、ジャックにもアリーにもなれる
のだよね
と、感じました。

どっちを選んでも残酷に見えます。

どちらも、身に覚えがあるように感じます。

だから、
とても、リアルだと感じました。

恐らく、そう感じる人が多いからこの映画は評価されているのでしょう。
Lady Gagaの中のピュアな質が本当にこの作品に共鳴してる。


このエンディングで良しとする
ということは、
ここに一つの希望がある 
ということなんだと受け取った。

確かに、
このエンディングの出来事は、一般的にはいいことじゃない
けど
私は、「これから始まるのだ」
という、気持ちがした。のは、確かです。

アリーが、
この後どうするのかを見たい。
と、思いました。

つまり、
これから、本物のスターになっていくのかな。
と、思考が動きました。


何かで居る
から離れて、
未知の領域へ
そこに、自分の形を描いていくのかな

誰かに望まれる形に
自分を合わせていくことで
ある種の成功や名声というのがあるし、
そこを通過するから
その先を見ることが出来るんだろう
とも思います。

そこを通過していく過程は、
火の輪をくぐり抜けていくように見えます。

その火の輪に、あっという間に焼かれてしまう人もいる

火の輪と思いきや、自分自身の中の火で焼かれてしまうのかもしれない
どっちかっていうと、そっちなのでしょう。

映画は、こんな華やかな世界を舞台にしているけれど、
内面で起こることは、
現代に生きている私たちに起こることと違いはないように感じる。

「私」を、私のままに生きようと
すればするほど、
こんな体験に直面する。

外へ向かうより、
内側へ、自分が自分自身へ近づけば近づくほど、
その過程で、火に焼かれるような目に遭うのは
なぜだろう。

ただ確かなのは、
アリーは生きている
ということ。

生きる という方を選んでいる
という事実。

焼かれてしまうと思いきや、
焼かれやしないのだね。

内側でチロチロと燃える炎も
自分を焼く程の熱い炎も
これは、私のものだ。

これは、私の命だ。

自分自身の生命だと気づいて
その炎を自分自身のものだと認めて
いくことなのかと思いました。

Lady Gagaの曲
Born this way
とも重なってきますかね。


ともかく、始めから最後まで
私は、いろんな種類の出方で
水が目から出ました。

観終わってからも、思い出すたび更に
大量の水が溢れています。

アリーの自宅の自室の壁に飾ってあった
キャロルキングの「Tapestry」のジャケット写真!

見つけた時、あまりの衝撃で変な音が喉から出てしまった。笑
そして、ぐっときて、また涙。

ああ、
私もまた、こうやって、
焼かれながら
水を出しながら
生きている

良い映画だった。




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by masumihug | 2019-01-08 01:48 | 所感

自分の中にうねるもの

「女性ばかりを狙う「ぶつかりおじさん」は、ストレス社会が生んだモンスターなのか?」
という記事を興味深く読みました。



この記事に出会って、

ああ、やっぱりアレは、
わざとだったのか。。

と、合点がいきました。

そして、
記事の中にもあるように、
同じ経験をしている人が多いとわかりました。

記事にしてくれて
世の中で共有してくれて
有難い。

不意にぶつかってしまった時とは、
明らかに違うのがわかります。

あるのは、

距離が、あったはずなのにな〜
おかしいな〜

というのと、

不意で、無防備なところに、
一撃を食らわされる
「突然さ」と「驚き」で
一瞬何が起こっているのかわからない
茫然自失状態。

そして、次の瞬間に
身体に痛みがあることに気づきます。
それもかなりの痛みです。

そして、
「もしかして、やられた?」

と、考えが至ると、
恐さが広がってきました。

男性から攻撃を加えられたのだ
という事実におののきます。

命の危険を感じます。

私に、何か非があったのかな?
と、少し前の自分の振る舞いを、振り返ります。

でも、思い当たらない。

そんな、経験が複数回ありました。
もう殆ど忘れていましたけれども、
記事に触発されて、
体験が蘇ってきました。


そして、
改めてこの記事を
ゲシュタルトのファシリテーターの目線も
含めて、読んでみたことを
書いてみようかなと
思いました。


その時を巻き戻して
私は、彼に確認したいと思いました。

できたら、その場でその時に確認したかった。
少なくとも、「ちょっと、ちょっと、ちょっと待って。」と、言いたかった。

「いま、痛かったよ。ものすごく痛かったよ。
何があったの。教えてよ。」

でも、茫然自失⇨激痛⇨その人は既にいない
でした。
 
そりゃあそうだろうなぁ、と、思うんです。
本人も、半分は、わかっているのじゃないかと思う。

その怒りの本当の対象が私じゃないって。

多分、ここまで言語化されていないのだろう。
大事なのは、そこのところ。

同時に、その本人の身体には、
感覚が、その度に素早く走っていると想像できる。

対象に思いっきりぶつかっていく時
ぶつかる時
ぶつかった後

強い衝動
駆られる感じ
快感

あとには、罪悪感のようなものが残ると思う
それを必死で打ち消す言葉も出てくると思う

これをやっている限り、
終らない。

この人には、本当の怒りの対象がいるから。

こんなことやったって、代替行為に過ぎない。

この人が、本当に抗議を、向けたい人がいるはず。

もっと言うと、
この人が、怒りをぶつけられなかったエピソードがあるはず。

もし、機会があったなら、
それを聴きたいです。


私は、
こんな道端で誰かの投影の対象になる
のは、嫌だ。

その人の怒りを表へ表現する練習の為に身体を貸すのは、
私は、嫌だ。


その人は、怒りを表に出せなかった、体験があるのだろう。

あるいは、過去に、
後から考えてこんなふうに思った体験があるのかもしれない。
「ああ、俺は確かに怒っていた、あの時俺は(相手に対して)怒って良かったんだ、ちくしょー」って
気づいた体験が、未完了のまま、まだ全然LIVEのまま
身体にあるのだろう。

と、推測している。

推測ついでに、更に推測すると、
この人は、「怒り」に対して、強い禁止も持っているのかもしれない。

だとすると、自分自身の「怒り」と馴染む練習も必要なんだ。


もっと言うと、怒りだけじゃなく、
すべての感情とも。


もし、この人と
セッションという構造を作ったならば、
私は、出会うことが出来る。
と、考えている。

推測、憶測はしたくない。

推測、憶測でその人を決めつけたら、
私も同じことをその人にしていることになる。
暴力こそはしてないが。

ぜひ、確認したい。


人間には、人を殺せるくらいのパワーがあるのを知っている。

そして、私は、
誰かの憤りには正当な背景が必ずあると思っている。
(もちろん、絶対とはどんな事に対しても言えないけれど)

そして、怒り⇨暴力 の矢印(⇨)のところを
一緒に見ていくことがしたい。
そこに興味がある。

それ以外の選択肢の可能性を発見できる。
人には、可能性を発見出来る力が必ずある。

そうすることで、その人は、犯罪者にならなくて済むと思っている。

その怒りには、背景がある。
事情がある。
歴史がある。
正当な理由がある。

そして、
その奥に、その人の純粋な望みがある。願いがある。

のを、知っている。

そこに触れたい。

純粋なニーズに触れることが出来れば、
それを満たす方法を、知ることへつながる。

少なくとも、その手段は、駅の構内で女性にわざとぶつかることじゃないはずだ。
いや、言い換えよう、
「駅の構内で女性にわざとぶつかること」も、一つかもしれないが、それ以外にもあるはず。

と、私は確信してる。


自分の内側のニーズに触れていくには、
時間と場所と、構造が必要だ。


私は、道端で、こんなふうに自分の身体を貸したくなんかない。

だけど、この同じ人と、セッションの場だったら、
お互い合意してなら、会いたいと思う。

もちろん、その時には対価をもらいます。

これは、私の才能と、それを磨いてきた努力がある。
そして、覚悟と責任と、優しさを使うからです。

それから、
私には、興味がある。
このことに、好奇心が向くのです。

私は、ただこの「ぶつかり男」を断罪するということでは
片手落ちのような気持ちが残る。

私自身が、自分の「怒り」とくんずほぐれつしてきた
歴史がある。だから、この人の歴史にも好奇心が向く。

そして、自分の「怒り」に責任を持ちたい。と、思うんです。

そうしなければ、自分が可哀想ではないか。
自分で自分を、ただのキレる危ない奴に貶めていいのか?

と、思うんです。

あなたが、
真剣に生きてきた。
真面目に生きてきた。
なのに、どうして。と、悔しいなら、
自分で、自分を解明する必要がある。

それは助けになる。
誰の為でもない、
ましてや、誰かに証明するのが最大の目的じゃない。
自分のため。

自分が、いま、生きていく為に、
自分の知性を自分の為に使うことが出来る。

自分の中にうねるものは、あなたのものだ。
責任を持つ必要がある。

そして、その有り余るエネルギーを
見ず知らずの弱き存在をブッ飛ばすのに無駄遣いするんじゃなくて、
自分の人生を存分に生きることへ注いでくれ!

あなたがそうしたいって意欲があるなら、
よろこんで応援したい。

あなたは、でかいエネルギーを持っている。


そんなことを
思ったのです。

もっと言うと、
ちょっと、ちょっと
と、あのとき呼びとめられたら、
出来たらここまで伝えたかったな。

私だって、思いや願いや、様々な感情との歴史を持って
生身のからだでそこに歩いていて
あなたといま、袖触れ合った。

あなたの方から、触れ合ってきた。
一応、受け取った。痛みと共に。
私にも、あなたへ向ける機会を、ちょうだいよ。










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by masumihug | 2018-12-26 12:17 | 所感

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


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