人気ブログランキング |

<   2015年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧

a0205246_03010514.jpg

師走の忙しいさなかですが、
しばし日常を降りて、
もしかすると一番分からない自分という
人を探求するとっかかりを、
ご一緒させていただけましたら幸いです。

何かもしあなたの目にとまったら、
気になったら、ぜひ、遊びに
いらしてください。

お会いできますこと楽しみにしています。
12月20日(日)です。

詳細は、こちらです↓ご覧ください。

『ゲシュタルト的な気づきの1日ワークショップ』

〜気づきのレッスン、そしてミニセッション〜




いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。




by masumihug | 2015-11-30 03:07 | 個人セッション

人生と仲良くなる


人生と、仲良くなれた。

自分にとって、
ゲシュタルトって、
端的に言うと、何だろう?って
考えていました。

「人生と仲良くなれた」
という言葉が出て来ました。

そのココロを、
書いてみます。

それ以前のわたしにとって「人生」っていうのは、
近寄り難く、
腰が引けるものだったような気がします。

わたしの横を大きな河が、ゆったりと、
淡々と、流れていた。

わたしは、岸にいて、その大きさ、
ゆったりだけれども確実なその流れに、
圧倒されるばかりだった。

今思い返すと、そんな光景が見えてくる。

「私」と「私の人生」の、
その当時の関係。

「人生」なんて言葉も、
軽々に使うことは出来なかった。

ゲシュタルトを知って、
ワークを重ねていくにつれ、
「人生とは、体験すること。それそのもの。」
なのかもしれない。
と、半信半疑ながら、
知っていきました。

今この瞬間に、
一瞬一瞬に居て、
そこに、十全に関わる。

そして、振り返ると、
一瞬一瞬の点が、連なって、
線が出来ている。(私の後ろに)

わたしは、
生まれてから死ぬという
直線の上に居ると思っていたけど、
そうではなかった。と、気づきました。

わたしの前には、線はない。

引かれている線はないのだから、
自分で一歩一歩、
歩を進めていくことになります。

その一歩一歩、
その度に、
選択をしている。

その選択をする時、
「今ここ」で気づき、
自分自身の感覚を信頼し、
何かを選び取っていくことになります。

ゲシュタルトセラピーには、
「今ここ」へ戻してくれる
様々なアイデアがあります。

一つは、身体を入り口にすること。
身体感覚は、嘘偽りがない。

そして、そこには必ず、(だいたい)
メッセージがある
ということを、知った。

身体を通じて、
自分の中の自分と対話をしていくことができる。

その時の最善の答えを導き出すとき、
自分の中の自分は、
頼もしい存在だと気づいた。

自分の中に相談相手がいる、
というのは、
目から鱗であったが、
これほど、安心することはない。

次第に、「人生」が、わたしに優しくなった。

わたしは、恐る恐る人生に近づいていった。

いや、実際、
「人生」から離れたことなど、
一度だってないのだけれど、
わたしにとってはそのような感覚があった。

そして、実際に起こっていたのは、
わたしは、わたしと、仲良くなった。

ということだった。

わたしは、いつの時点かで、
自分を嫌いになり、
自分で居ることに嫌気がさしていて、
「死」のその時まで、
「時間を潰す」と、思っていた。

何をしても、自作自演の田舎芝居。

と、感じていた。

これは、好きになれない脚本を渡されて、
いつまでたってもしっくりこない役を、
いやいや演じる。そんな感覚があった。

ゲシュタルト以降は、
脚本も、役も、ない。

自分自身でよかった。

すーすーする感じは、あったけれど、
その手持ち無沙汰感も、新鮮であった。

わたしは、自由、だった。

同時に、責任があり、だけど、愛、があった。

拠り所、よすがのない感じが一瞬は
したのだけれど、
そんな時、自分自身に聞いて、耳をすませば、
身体の中を丁寧にさぐれば、
今自分の中で何が起こっているのか、
そして、どうしたいのか、
を、掴んでいくことが出来る。

それを、恐る恐る口に出して、
自分の身体に響かせ確かめる。

波紋が広がるのが分かる。
しっくりきているか、
どこか違うか、
身体の感覚に聞き耳をたてる。

それを繰り返す。
起こっていることに信頼を置いていく。
起こっていることに、ついていく。

最初は、リスクを冒すような感覚があるが、
そこに信頼を置いてみる。

(以前は、思考の中の「恐怖」というスペースから
様々な指示が「私」へ出されていた。)

何が起こったかと言えば、
人生の責任を自分に引き寄せて、
人生の主体者を自分に据えていた。

ゲシュタルトセラピーのワークを受けることで、
その練習をしていたのだった。

ゲシュタルトセラピーは、
セラピーとは言うけれど、
治療モデルと言うには、少し違う感じがある。

プラクティスモデル、
練習や学習、実験、実践モデル、と言う方が、
わたしにはしっくりくる。

そして、ワーク(セラピーのセッション)で、
その練習をしていると、
結果的に、セラピーになっている。

それは、何より確実なセラピーである。

起こっていることは、とても単純なこと。

自分自身の欲求の核と出会う体験。
そして、
その欲求を満たすことが出来ると知る体験。

ただそれだけ。

ただそれだけなのに、
自分自身に力が戻ってくる。

いつしか人生という大きな河へダイブする勇気が
備わっている自分に出会う。

これは、ちょっと、わぉ!なことだ。

「ゲシュタルト的な気づき」の練習は、
セラピーにもなり得る、し、そして、
同時にコーチングでもある。と言える。

ワークを終えると、
エネルギーが湧いている、
パワーがこの手に戻っているのがわかる。

自然と、歩き出している。

アタマと、カラダと、心、魂と言ってもいいかもしれないが、
すべてがひとまとまりとなって、「今ここ」の状態で
事に当たる。
これは、非常に頼もしい感じがする。

そして、人生と仲良くなった。

人生を今、生きている。と言えるようになった。

今となっては、当たり前のこの感覚。

そして、やっぱり、時々わからなくなるとき、
わたしは、ワークを受ける。

そして、そんな場がある、というのは、
わたしにとって、とても、いいことだ。
と、思っています。

そして、私自身が誰かのそんな場所で在りたい。
そうで在れたら、なにより幸いだと思っています。

お会いできたらうれしいです。
ありがとう。




〜個人セッションでお会いしたいです〜

120分間、自分自身に最大の興味と関心を向ける
あなたのための時間です。
あなたがあなたと出会っていく時間になります。

 



いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ










by masumihug | 2015-11-28 07:27 | 個人セッション

恐いもの

わたしが、
恐れる
世界3大宗教は、
以下の三つ。

なかよし教
ハイテンション教
前向き教

この三つは、
時々、いや、多くの場合、
同時にある。

これを見ると、
わたしは、
とにかく、その場から
離れる。

どうにかして、脱出を試みる。

間違ってそういう場に
居ることになってしまった場合、
殆ど、体外離脱している。

そこに居るように見えるわたしは、
殆ど、抜け殻です。

そして、ほんとうに、
疲労困憊します。

ナスすべがないです。

そして、
どうやら、それをやっている本人達も、
疲れているらしい。

多分、
他の方法を知らないのだろう。

漕ぎ続ける、自転車。のよう。

多分、
止められないのだよね。

そうなるには、
理由があるんだよね。

それを、
止めたら、「落ちてしまう」
と、聞こえてきそうだ。

落ちないよ。

足が、あるじゃん。

ただ、止まるだけだよ。

止まると、
自然と、つま先が地面に着く。

漕ぐのを止めて、
足を、止めて、
ただ、止めていれば、
車輪は、ゆっくり止まってくれて、
そして、
おもむろに、つま先をペダルから
離して、そのまま足が重力に沿えば。
地面に着ければ、
それで、
安全に止まることができるんだから。

そう、安全です。

止まる方が。

そうしたら、
一息つける。

景色を見れる。

空気を吸って、
水筒の水を飲んで。

そして、また、漕ぎたくなってきたら、
漕げばいいじゃん。

それは、ハートと、
相談して、決まること。

身体が教えてくれる。

だから、
身体に、
空気と、水を供給する。

身体を整える。

健康な、五感を取り戻す。

そうすれば、
自分で決められる。

自分がなりより、頼もしい。
自分がなにより、信じられる。

そんな、宗教、私はおがまない。



いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。


by masumihug | 2015-11-24 23:50 | 私のこと
★夏に書いた記事。公開にするのを忘れていました!💦
今頃、アップします。


先日の、
ゲシュタルト療法学会にて、
たくさんの刺激を受けました。

海外招聘ゲストの基調講演や実践の
場面に居て、
僭越ながら、
わたしは、間違っていなかった!と、
溜飲を下げた。

大丈夫、これでいい。

いつものように、
自分を信じてやっていく。

人を信じ、
場を信じ、起こっていることに、
信頼を置いて、
なにより、クライアントさんの
役に立つならば、わたしの
リソース全部、使えるものなら、
全部使って、全力で、
支援してまいります。

いつも、ありがとうございます。

そして、
学会の話し。

いろんなおもしろいインスピレーションに
つながる、発表を見聞きしました。

ちょこっと、
書いてみます。

今回は、
テーマが「関係性」。

関係についての
話しがたくさんありました。

「集団主義」「個人主義」

日本は、前者の世界と言われるワケです。

集団主義の世界では、
「(人間)関係」が、「図」になっている世界。

と言うことができると。

ちょっと、補足すると、

ゲシュタルト療法では、
「図」と「地」という表現をするのですが、

よく例に出されるのが、
「ルビンの杯」の絵。

この↓の本の表紙の絵。ですが、


その輪郭を象っているのは、「2人の向き合う横顔」です。

あなたは、
最初に何が見えてきたでしょうか?

この、見えている絵が、
あなたにとっての図であり、
背景として沈んでいる方が、地です。

どちらか一方が見ている時、
もう一方は、背景へと下がっていき、
見えなくなります。

両方を同時に見る(認識する)ことはできません。

こんな風に、
自分にとって、目だって見えているもの、
注意が張り付いているもの、が、図です。

なので、
話を戻すと、

集団主義の社会は、
人間関係が、図になっている、
つまり、最優先事項になっている
社会と言うことができる。

一方の、個人主義の世界と言われる
欧米社会では、
「関係」は、地になっている。と、
言っていました。

どちらが、いいとか悪いとか、言っている
ワケではなく、そういう世界に、住んでいる
ということです。

人間関係が、ことさらに強調される
日本社会では、
まず、人間関係ありき。

例えば、
かつての時代では、
会社の同僚、上司部下、は、
しょっちゅう仕事帰りに
お酒を酌み交わして、関係という土壌を
しっかり作ることに腐心したのです。

何より、人間関係という土壌を作らなければ
ならない。という脅迫に似たものがあります。

但し、これは、ある意味
とても正しい。

良好な関係あって、個人のパフォーマンスは、
格段に上がります。

たとえば、サッカーの試合の
ホームとアウェイのようなもんです。

敵対的な関係の中では、本来出来ることも
出来なくなってしまうことが起こります。

だから、人間関係ありきというのは、
確かに当たりなんです。

ただ、落とし穴があります。

人間関係が、ことさらに重要視され、
それだけにやっきになってしまうこと。

この社会では、
有りがちです。

何か、自分が事を為す/成す為だった
土壌作りが、
いつの間にか、
土壌作り自体が、目的になってしまう。

和を以って尊しとなす。

聖徳太子が言ったこと、
まだこの国では、脈々と
続いています。

この時に、
自分の考えを押さえつけたり、
押し黙っていたり、
妙に自分という個の存在を消そうとしたり、
もっといくと、
気配を消したり、

それを、自動的にやっていたり。

そして、それが、いつしか習い性になっていて、

ただ、「属す」ということだけ、
漫然と行っている場合がある。

それでも、
恐らく自分の考えというものは
あるはず。なんだけど、

あまりにも、ないことにすることに
慣れたために、
自分というものすら、捉えられない。

「自分」を描写できない。
ことで、
自分の輪郭が描けない。

輪郭がないので、その集団の中に、
取り込まれ、液体のように漂う。

時々、イライラする、
のだけれど、
もはや、
何が、自分をイライラさせているのかさえ
分からない。

もし、あなたが、
なにかもやもやするなら、
そして、さしたる理由が見つからないなら、
こんなことが、背景にあるかもしれない。

少しずつ、もう一度、
自分の輪郭を、描いていくことを、
自分自身が求めている時なのかもしれません。

個人セッションで、
ご一緒に探求しませんか。

お会いするのを楽しみにしています。








いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。




by masumihug | 2015-11-21 06:00 | 個人セッション

足るを知るって?

地球上には、

お金は、(食糧も、)
使い切れないほど、
(食べきれないほど、)
有り余っている。

というのは、事実。

そして、
もし、あなたが、
何か、「足りない」という
感じを持っているのなら、

持っている人と、
持っていない人を、

或いは、

足りていると感じている人と、
足りないと感じている人を、

分けるのは、
なんだろう?

ほんとうのところ、
あなたが、「足りない」と言っているのは、
なんなんだろう?

或いは、
「わたしは、〜〜がほしい」と、

言い換えることは、出来そうだろうか?

この問いは、
あなたの何かを
動かすだろうか?

このエリアを探求することで、
もしかしたら、

あなたが、「足りない」と言って、
あるいは、それを感じて、
自動的に、何かを供給するシステムを、
見直すことができるかもしれません。

この自動システムは非常に高コストなので、
見てみる価値があります。

そして、
あなたは、十分に足りているってこと、
知るかもしれないです。

よかったら、個人セッションで
お会いしたいです。





いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。





by masumihug | 2015-11-19 06:00 | 個人セッション

鏡は笑わない

今日、
スタバで隣に座っていた初老の男女。

女性の方が、おもしろいことを言ってた。

その女性も、「おもしろい言葉を聞いたのよ」って
男性に言ってた。

男性は、あまり気にも留めていらっしゃらず。
その会話が聞こえている
わたしの方が、あぁ〜と頷いてしまった。

「鏡は、先に笑わない」って。

確かにね〜。

「だから、あなたが先に笑うのよ」
って、なにか、説教じみてはいるものの、
それは、確かだな。

誰であろうと、この世で出会っている相手は、
鏡のように映してくる。
自分を。

それは、残酷なまでに。

自分を知るのは、
誰かを通してだ。

そして、こうも言える。

相手の自分への態度は、
実は、自分が指示している。

あなたが相手に対して
「私のことをこのように扱ってください」って、
言葉や、態度や、目線や、
プレゼンス全て、その時発している全てで、
伝えている。

言葉より、伝えている。

だから、相手の自分への態度は、
自分の責任が大きい。

だからと言って、
相手からなにか有利に自分を扱ってもらえるように
それを引き出すように、振舞いなさいって言っている
わけじゃないです。

ですが、そういう事実を利用して、
自分に有利に働くように
印象操作をすることは、短期的には可能だし、
ある意味、面接のコツ、スキル、は、表面的にそれを
繕えばいいと、教えている。

だけど、そんな交渉の目的じゃなく、
微笑まれる環境を自分に
与えることは、自分次第で出来るのだってこと。

相手の笑顔がほしかったら、
自分が先に微笑む。

スキルだからと言ってやらないより、
やっていたらいい。

微笑まれる環境は、あなたを楽にさせる。

スキルもその内、あなたの習慣になる。
その内、心から微笑んでいる。

人に会った瞬間、
目が合った瞬間、自動的に脳が喜んでいるのがわかる。

あなたに会えてうれしい!って。

その場に、良いエネルギーの循環が起こる。
あなたは、3割り増しに、本領発揮する。
きっと。笑

そして、その時あなたは、相手の鏡になっているってこと。

相手にも、同じことが起こる。

いいね。






いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。




by masumihug | 2015-11-17 06:00 | 所感

こんな気分なの?

a0205246_22274863.jpg
a0205246_22274460.jpg

シティリビングと、日経新聞
同じ週に、
マインドフルネス瞑想の記事。

これは、時代の気分の現れ?

シティリビングの読者って、いわゆるOLさんってイメージ。
いや〜、いまどき、絵に描いたようなOLさんなんているのか??

日経新聞、これは、日曜版。
だから、普段は忙しいビジネスマン、
ビジネスウーマンが、家で寛いで読んでいるってイメージ。

そういう方々が、瞑想したい気分?なのかな。

う〜ん、わかる気がする。

わたしのことを思い起こせば、

2003,4年頃、

会社員で、追われるような毎日で、
あっという間に次の日が来て、
ついさっきまで、
このデスクでこのPCの前にいたような、
そんな毎朝。

そして、ちょうど、
原因不明の病気で入院から戻り、
それがきっかけで、
物質世界から、精神世界へ意識を
シフトさせようとしていた時期だった。

その頃は、こんなふうに瞑想が日経で
紹介されるなんて世の中じゃなかったけれど、

レイキや、エッセンシャルオイルの世界へ入っていて、
その恩恵にもっともっと浴したい!
もっともっとそれらのものたちと仲良くなりたい、!
受け入れてほしい!
って気持ちがあった。

瞑想の真似事なんてしていた。

けれども、それは、
すご〜く難しかった!

できたとしても、
そんな気になっていただけ。

目を閉じたら最後、
睡魔に凌駕されてしまう。

そうでなければ、
いつまでも冴え冴えのアタマが、
自分に向かって軍隊みたいに命令を出し続ける。

瞑想しろ!って。
ほら、目の前に、バラがあるでしょ!って。笑

そして、出来損ないの部下を叱り付けるように、
瞑想出来ない自分にイライラしてた!笑

笑い話でしかない。

実際、瞑想をして、
本当に自分に寛ぐという感覚に包まれたのは、
会社員を辞めた直後だった。
それは、とってもたやすかった。

やはり、モードがだいぶ違うのだ。

これは、誰もがそうだとは言わないけれど。
あくまで、わたしの経験と、そこからの考察です。

交感神経を優位にさせていなくては
会社員でいるモードを維持できなかった。
それはそれで、その時、生きていくための
選択だったし。

そして、瞑想状態にする為に、
副交感神経を優位にしていこうとしていた。

この、していこうとすることさえ、そもそも交感神経的な
発想なワケで。。

オーム真理教のあのおじさんが、
瞑想するぞ!瞑想するぞ!って連呼してたのを
連想してしまうんだけど、

そんな勢いでは、ムリ。笑

瞑想状態って、起こってくることだと感じています。

それは、逆に言うと、
環境と自分の状態の条件が合えば、
自然と起こってくること。

自分の状態の条件
というのが、
やっぱり、あの時のわたしが身を置いていたような
バリバリの会社員の状態では、かなり難しかった。

それは、周波数というか、
自分が存在していると認識している
範囲の帯とでもいうか。

だから、こんなふうに、
ち〜んと、ただ座っただけで、
一応リードしてもらったとしても、
瞑想の境地へ触れることができるかどうか。。
わたしは、懐疑的だ。

その時の、それなり、は、あるとは思う。
ないよりは、まし、だとは思います。

で、言いたいことは、
このマインドフルネス瞑想と同じような
境地、あるいは、もっと言うと、
気づきの感覚や体感を得るのなら、
別のアプローチがあるよってことなんです。

やっと、ここまで辿り着けました。
前置きが長くてごめんなさい。

手前味噌って言われそうだけど、
ハーモニー体操がそう。

身体を入り口にすること。

自分の身体に、ぴったり自分の気づきを向けていく、
そのアプローチで得られる感覚は、
マインドフルネス、
ひいては
「気づいている」「開いている」
いわゆる、Aha体験が起こる下地。と言える。

わたしは、動きをリードする言葉を発して
ファシリテートしています。
そして、
ワークする人たちは、
自分の身体とコンタクトしています。

意識、注意は、どんどんどんどん自分の内側へ
向いていきます。

知らず知らず。
これがいい。

そして、この恩恵が、すぐに体感できるのがまたいい。

身体の機能が、回復する。
だから、体感できる。

自分に注意を向けることによる恩恵を知るから。

まっさらな気持ちで、
初めての経験をするかのような感覚。へ入っていくことへ
徐々に躊躇がなくなっていく。

自分にこびりついた、もはや使い古しの信じ込みが、
消そうとしなくても、上書きされていく。

ワークが終われば、何を消して、何を採用したかなんて、
忘れているし、それでOK。

もしかしたら、時間差で、それがは!っと言語化されて、
更に理解が進むかもしれない。

理屈が欲しい人には、この体験は非常に大事だ。

「ハーモニー体操」っていうダサい名前がついていて、
身体を動かして練習するというような印象があったら、
それは、もったいない。

わたしが何故ゲシュタルトセラピーと一緒にやっているかって
言ったら、ゲシュタルトで起こることととても似ているから。

だけど、ゲシュタルトのワークに取り掛かるより、
気持ちはもっと楽にできる。

だから、併用してもらえたら、相乗効果があると
確信したから。

どうぞ、一度体験してみてください。

マインドフルネス瞑想に、ご興味がおありなら、
多分、ニーズに合うと思うんです。




いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。





by masumihug | 2015-11-15 16:16 | ハーモニー体操

ハーモニーの動きって、

すごく独特かもしれない。


だけど、だからこそいい。


ゆっくり、丁寧に、カラダを動かすこと、

或いは、人のリードで動かされてみること、


そして、そうしている自分を全身で、

観察することが出来るのが、

ゆっくりな時間。

或いは、間に挟む休みの時間

味わう時間

横たわってカラダに呼吸を運ぶ時間


自分に気づきの眼差しを向ける

そのやり方


それは、ありとあらゆることに通じる

「今ここ」にいるために不可欠なこと


それが一体どんなことにつながるか、やってみれば分かること


だけど、それを説明しないのは、不親切なんだろうか?


だけど、説明したって、

来ないと決めている人は、来ないって知ってる。


そして、来る人は、来るのだ。


だから、世の中は、不平等に出来てる。

気づいている人は、たくさん気づく。

気づいていない人は、まったくない。

見えている世界が、受け取るもの、まったく違う。


気づいている人は、ただ息をしているだけで、よろこんでいる。


気づいていることを知らない人は、

息をするのも時間がもったいないとばかり。

結局、息さえ、しないようだ。


そういう人は、どんなことを信じるんだろう。


いや、信じるから、やるんじゃない。

何かを、選ぶ時、それを信じるから手に取るんだろうか?


手にとってみる、やってみる、前提を捨てて、体験の中に入ってみる。

そんな時間を、自分にさせようとする時、

何が起こっているんだろう?


恐らく、確信などない。

だけど、根拠のない確信めいたものがあるんじゃないか。

そしてそれは、やりながら、確かめる。

やりながら、恐れ、想像、予感、推測、が、確信へと変わっていく。


その逆もあり。


だから、やってみなければ、わからない。


その対象に、なにかわからないけど、自分の注意が、向くんなら。惹かれるならば。


じゃあ、気づいてない人は、いつまで経ってもそのままなんだろうか?


そんなことは、ない。


そして、それが今じゃないだけ。

それが、わたしとじゃないだけ。


もしかしかたら、

明日なら、

もしかしたら、

もうちょっと、ゆっくり話したら、

もうちょっと、息をしたら、

涙が出たら、

わたしたちは、いい仲間になる。


と、わたしは、信じている。


同時にそれは、誰とでも起こること。と、わたしは知っている。


だけど、それを知っていて、

今、出会っているという事実を、

大切に感じずにはいられないわたしがいます。




いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ



by masumihug | 2015-11-15 06:00 | 所感

共生球 その2

『共生球 その1』からの続きです。。


わたしは、預けられた子供達の中で、
一番ぎゃんぎゃん泣いていた女の子の担当になった。

というか、あんまりにも泣いているので、
どうしたんだろう?と近づいていったら、
多分、きっと、他のシッター役の人達、多分、これ幸いと、
別の子たちに関わったんだろう。

わたしと、その子がその場に残った。

で、わたしの最初の仕事。。

おしめを替えた。
初体験だった。

で、それから、
ともかく、抱っこしてみた。
これは、多分、記憶を掘り起こした。

母が、妹を育てていた時のこと、
思い出していたような気がする。

そしたら、何をすればいいか、
何だか段々、
アイデアが湧いてきた。

その子を抱っこして、そこは小さな体育館のような
会場だったのだけど、彼女に、その場所を案内して周った。

カーテンを触らせたり、
木の壁を触らせたり、
彼女は、確か1歳くらいだったと思う、
だから、わたしが抱っこすると、
彼女から見える景色は、
いつもよりかなり高い場所。

大人の視線を経験させてあげようと思った。

彼女の、体のこわばりが、徐々に
解けていく感覚があった。
手応えが、うれしかった。

だんだん、彼女のぎゃん泣きが収まってきた。

聞けば、前回のイベントでは、
預かっていた時間中ずっとぎゃん泣きだったって。。。

だから、皆さん、さっと潮が引くように。。。笑

だけど、そんなに泣いたら、そりゃ疲れるよね。
だんだん、彼女は、眠り始めたんだ。

わたしの胸の前、腕の中で。
へ〜って思った。

そして、わたしは、
壁に寄りかかり、足を伸ばして
床に座った。

眠っている彼女を太ももの上に座らせて、
向かい合わせに。

温かい、というより、熱い。
体温がこちらに
伝わってきた。

そして、眠りの感じも伝わってきた。

そう、同調してきた。

二人して、微妙に揺れているような、
いや、揺れているのは、錯覚だろう。

揺れているような、漂っているような、
二人して、揺りかごに乗っているような、
そんな感覚に包まれた。

大きな透明の球の中、
生温かい空気に包まれているような。

宇宙にたった二人しかいないような。

そんな感覚。

呼吸は、もはや、自分と彼女との区別が
つかないような。。共有しているような。

いや、むしろ、この、大きな球の中では、
呼吸ではなく、エラ呼吸?のような感覚とでも
言うような。

わたしも、眠っているような、覚醒しているような。

夢うつつだった。

そんな状態に浸っている時、
「わたしは、⚪️⚪️を抱いている。
⚪️⚪️のお母さんだ。」

という言葉が浮かんできた。

涙と共に。

その前年に別れた男性の名前が、不意に浮かんできた。

⚪️⚪️は、実母との関係は複雑な方であった。

あぁ、⚪️⚪️も、こんな時期が確かにあったろう、
そして、この記憶も、確かにあるはず。そして、
それを思い出せたら、どんなに良かっただろう。
どんなに、助けになったろう。
そんなことを、思った。

そして、
これが、共生球という状態だ。と、分かった。

母子一体の、理窟なく、なんの遠慮もなく、
ただ漂い、母子一体であることになんの疑いもなく、
その中に浸って、この上ない安心感。

期待が絶対に裏切られない時間帯。
期待も、それに対する応答も、そもそも
一体なので、起こり得ない。

完全な、一体感。

この後の、母子の分離、心理的な、
を、予感もしていないかのような。
だけど、
心理的分離があるからこその、
この瞬間をじゅーぶんに味わう。

味わう必要がある。

出産したことで、実際には、
子供は、母から分離されてはいる。けれども、
この、別の肉体を持ちながら、
と言うか、
別の肉体を持った後で、一体を味わうという経験が、
この世に出てきて自分の肉体を得てから、体感することが
とっても大事なんだ。
この安心感。

この後の人生を、やり易くしてくれる。

この感覚。

そして、
母親の方も、こんな幸せを享受していたのだと、
この時に知った。

わたしの母親が同じように感じたかどうかは
わからない。

そして、他の母親も、実際には、
その子育ての時の環境に大きく左右されると
想像する。

潜在的に親の方にその能力はあったとしても。

そして、その母親自体の心理的、精神的状況が
必ずしも、こんな感覚を十分に味わえる状況かどうかは
わからない。

子供が育つ時に、必ずしも
すべての状況、環境が整っているとは限らない。

そして、往々にして、それは、
そうじゃなかったりする。

だけど、子供は、そんな親の状況なんて
知ってか知らずか、
或いは、おかまいなしに
どんどん育ってしまう。

生きるってことに疑いがない存在。
生命力のかたまり。

その生命力のかたまりは、
母親の方を助けている。

もっと言うと、
抱っこしているのが、
母親だろうと、誰だろうと、
わたしだろうと、
それは、伝わってくる。

もしかしたら、
応えてくれているのかもしれない。

もしかしたら、
応えてくれているのだったら、

実際に子供を産んだことのある女だけが、
この境地を経験できる訳じゃないのかもしれない。

子どもに、安心を与えることができたとき、
子どもは、鏡のように応えてくれるのかもしれない。

それは、愛っていう状態かもしれない。

わたしは、その子どもによって、その幸せな状態が引き出されたし、
その子どもは、それによって安心して、更にわたしを
愛の状態にしてくれた。

相互に、循環する、時間帯だった。
それは、時間の長さの感じはなくて、
空間は狭いようで、宇宙のように広かった。

わたしは、この時思った。

実際に産んだ経験は、
もしかしたら関係ないかもしれない。
だから、大丈夫。
わたしに、その、愛の状態になる能力が欠落している
訳ではないのだ。
と、確信めいた感覚が浮上した。

うれしかった。

産んでない女性の方々。
わたしと同世代の女性で、口惜しい気持ちを
抱いている方がいらっしゃるかもしれない。

だけど、あなたに愛がないわけじゃない。

あなたは、愛で、愛の状態になることはできる。

そして、それは、我が子を抱いた時だけじゃない。
どうぞ、それを、もっといろんな場面で発揮してあげて!

それを待っている対象が、この世にたくさんいるはずです。

実際の親からもらえてない子かもしれないし、
動物たちかもしれないし、
男性のパートナーかもしれない。

もっと言うと、同僚や、上司や、後輩たち
同性の仲間たち、かもしれない。

出し惜しみなく!

この世は、
おんなの抱擁を、必要としている。





いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。






by masumihug | 2015-11-14 06:00 | 個人セッション

共生球 その1

知人が赤ちゃんを産んだ。

それで、思い出したエピソードがあります。

随分と前になるけれど、
あの感覚を思い出した。

小さいお子さんをお持ちのお母さん達が
集まるイベントのお手伝いをした時のこと。
わたしは、ベビーシッターをやった。

それをやるということ自体、
今考えると、自分の選択とは思えないのだけど、
その時のわたしは、興味が勝って、やってみることにした。

だけど、ドキドキだった。
だって、いい歳して何一つ経験がない。
わからない。

分かったフリも出来ない。
予習も出来ない。
丸腰で、向かうしかない。
って言ってる時点で、相当おかしい。
構え過ぎてる。

おかしくなっていると、
恐怖を増大させる想像がどんどん膨らむ。

そして、理由を見つけ始める。

こんなふうに、

わたしには子供がいないから、

子供を預けるお母さん達は、
きっとわたしのことを、
不信な目で見るに違いない。

わたしには出産経験がないから、
お母さん達は、わたしをバカにするに違いない。

惨めな女と思うに違いない。
負け組とジャッジするに違いない。

そして、
想像はどんどん膨らんで、

もしそんなことになったら、
わたしはもう立ち直れない。
そのダメージは、致命傷になる。
あぁ、そんな経験は死んでもしたくない。
なんて。

実際は、そんな事態は微塵も起こらなかった。

お母さん達は、
そんな他人のことなんて、
見てない。笑

で、もっとすごい体験になった。
やって、良かった。

長くなりそうので、次回に続きます。。。。



いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。




by masumihug | 2015-11-13 22:40 | 所感

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug