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私の中の変わらない私


状況を変えたい、
自分を変えたい、とセッションにおいでに
なられる方、おっしゃいます。

そうですよね。
そういうふうに、思いますよね。
受け取ります。

巷にも、そんな題名のノウハウ本が
あって売れているみたいです。

そして、
実はむしろ、
自分も状況もめくるめく
変わり続けている。って、
言ったら、どう思いますか?

そう思ったことありますか?

つまり、変わり続けている自分がいる。
そして、状況を止めようとしている自分がいる。
そんなふうになっていることに、
気づくでしょうか?

細胞は常に死んで生まれてます。
数年で全身が入れ替わるって言いますよね。

私は、手術で子宮を取りました。
ご病気、手術、事故、いろんな理由でカラダの形状が変わる人
おられます。
歩けなくなる人、しゃべれなくなる人、
記憶がなくなる人もいる。


一方考え方や価値観なんてどうですか?

すごくブレます。
NHK特集を観たら、それだけで考えが一変したなんてことあります。
今日と明日では言ってること変わりますよ。
それでいいんです。
そんなふうに柔軟で上等ですよね。

だけど、変わらないとこがあるんです。
それは、「私自身」というところです。

いくらカラダや考え方が
次々に変化していっても、
依然として変わってない自分自身。

それは何処にあるんでしょう?
カラダの何処か?なんでしょうか?

自分自身に問いかけてみるとどうでしょうか。

何か答えが返って来ますか?
体は何か反応していますか?
何かを、うっすら感じますか?

「私」が、存在しています。
どこかは分からない。
だけど、確かに、存在している。
と、感じますか?

それがあるからこそ、
いくら細胞が入れ替わっても、
自分が維持されます。

きっと生まれてからずっと変わらずある私。
私の核のようなもの。
生命力であり、想い、であり、願いであるのかもしれません。

そして、「私固有のビート」とか「リズム」、
というのも感じます
大元の私。

私のセッションでやっていることと言えば、
変わり続ける流れから一旦降りて、自分自身の中へ探求することです。

そして、変わらない私に触れに行くことです。

そして、実際、私のセッションでやっているのは何かと言えば、
そのめくるめく日常、あるいは、変化し続ける自分自身に一旦ストップをかけることなんです。

そして、自分自身を味わう時間をとってるんです。

そこに、変わらない自分を発見するというワケなんです。
自分自身と出会うんです。

それが、初めての自分探求であったとしても、大丈夫。

わかるんです。
ひとたびそこに触れれば分かります。
コレだと分かる。

そして、自分自身がひとまとまりになるのを実感するはずです。
パワーを取り戻す感じをカラダで感じるかもしれません。

自分自身と一体となって表現しているとき、
心からのよろこびがあります。

その時発される音や声や、言葉や、動きには力が宿っています。
誰が見ても明らかです。
ストレートに伝えます。
真実だと感じるはずです。
他でもなく自分自身にとっての真実です。
自分自身と話すとき、他の誰かを説得する必要はありません。
考えなくていいんです。
これは、ある種贅沢な経験かもしれません。

そうなんです。
変えるのじゃなく、変わらずそこに居る自分を発見するんです。
そこにチューニングを合わせるんです。

自分と出会い、体験するんです。

この世界に、変わらないものなんてない。
すべてが変わり続けています。
状況を、止めようとするなんて、
ましてや
ある状態に戻そうなんてナンセンスです。

もし、そのようにしているとしたら、
ものすごく疲れます。
自然の摂理に抗うようなものです。
大きなエネルギーがそこへダダ漏れしている
可能性があります。

そして、もしそうしているのなら、
それにはきっと動機があるはずです。
そこを見ていくことも出来ます。

自分自身なら、手の付けようがあります。
まずは、自分自身にフォーカスします。

出会いたい!と探究します。

時々、そんなメンテナンスが、必要です。
自分の人生を生きたいと思ったならば、
必要不可欠だと信じています。

ご一緒させていただけたら幸せです。




〜個人セッションでお会いしたいです〜

120分間、自分自身に最大の興味と関心を向ける
あなたのための時間です。
あなたがあなたと出会っていく時間になります。

 



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by masumihug | 2016-10-26 10:28 | 個人セッション

安心して悲嘆にくれよう

悲嘆にくれている人がいたら、
その体験を邪魔したくない。

絶望している人がいたら、
むやみに大丈夫なんて言いたくない。

葛藤している人がいたら、
うれしくなります。
「わぉ!」
なにかが生まれるんだね!

普段のコミュニティーの中では、
誰かのそんな状態は、
薄めようとされるかもしれません。

その人は、
悲嘆にくれる、
絶望する、
葛藤する、
っていう体験を今まさに
味わっている最中。

そこに、
こんな言葉がかけられたりします。

「私の歳になればわかるから」
「そんなこと考えない方がいい」
「前を向いて」
「どんな時も笑顔で」

それは、誰の為?

耐えられないだけです。

悲嘆にくれている人じゃなくて、
見ている人がです。

本人の貴重な体験は、
ストップされてしまう。

ディスカウントされてしまいます。
もったいない。

安心して悲嘆にくれることができるって
ものすごく贅沢なことなんです。

安全に絶望することができるって
なんて稀有な経験でしょう。

葛藤と、真剣に向き合うって
最高に前向きなことです。
(前向きって言葉は大キライですが)

普段のコミュニティーの中では、
なかなかさせてもらえないことかもしれません。
タブーとされている人もいるかもしれません。

人間に起こってくることで、無駄なことなんて
ないです。すべてに意味があります。

それと、関わってみることができます。
それにどっぷり浸かってみることができます。

何が起こるでしょう。
体験してみることができます。

環境を整えて、
安全を確認して、
時間をたっぷりとることで、
見えてきます。

そこが、探求の入り口になります。
自分の中へ答えを探しに行けます。

他でもない、自分だけのための回答です。
知恵にあふれています。
身体ごと納得感があるかもしれません。

個人セッションの時間は、
そんな時間になります。

そして、そんな体験を経たあなたは、
次に悲嘆にくれている人を見たら、
その人の体験をそのままにしておきたくなる自分に
気づくかも。ね。

その「悲嘆」「絶望」「葛藤」が、
貴重なものだって分かっているから。

心の中でエールを送るかもしれないね。

そして、ひとまわり統合している自分を
実感するのかもしれません。

そして、
誰かの「悲嘆」を見たくない人たち。
のことにも想いを馳せることができるかも。

その人たちは、慰めるテイを装って、
自分がそれを見たときに自分自身に起こる(であろう)
感情の高まりを受けとめることができないと予想して怯えている。

言わば、自動安全装置が働いている。
無意識のなせる技。

そして、
相田みつをみたいなこと言ったりしちゃいます。
口から滑らかす。笑

「自分の感情の変化、動揺、を、どう扱ったらいいか分からない」
「自分がどうなっちゃうか分からない」
「恥ずかしい」
だから、
「ないことにしなくちゃ!」となるのです。

ひとまずその場を、やり過ごす為のシステムを
人は備えています。
無意識のなせる技です。
ある意味、健康体でちゃんと機能してます。

ただ、それは、自分のために使うだけでいい。

人のその体験まで薄めなくていい。

「ああ、いま、自分の安全システムが稼働中だな」
って、気づいていればいいのです。

そして、
一旦、「そんな自分に気づいている」の状態を
知ったなら、

あなたは、大切な人をサポートすることができます。

つまり、

悲嘆にくれているのが、あなたの大切な人ならば、
ただ、一緒に居るということを選ぶことができます。

もしかしたら、今までだったらただオロオロするしかなかった
局面に、選択の隙間があることに気づくワケです。

これ、何気なく読んでしまうと思うのですが、
大きな違いです。

そして、一緒に居るを選んだら、
言葉は要りません。
いいこと言わなくていいです。

ただ、居てくれること。それがなんと贅沢か。
それは、最高の、大切な人へのサポートになります。

サポートしようとしなくて、サポートになります。

その相手へ100%の貢献をする必要はない。し、
サポートしているフリをする必要もありません。

ただ、一緒に居ます。
自分自身を感じながら。
ただ、呼吸と共に。

それは、悲嘆にくれられるスペースを提供しています。
それは、存分に悲嘆にくれていいよという時間を提供しています。

それだけで、でっかいメッセージになっているんです。

そして、あなたは、あなたの大切な人が、悲嘆の底から
生命力を胸に抱いて浮上してくるのを目の当たりに
することになります。
それを見れば分かります。

人ってすごいです。
悲嘆にくれている人も、
ただそこに付き合った人も。どっちも。

自分自身の「気づく」力、
セッションの中で出会えるかもしれません。

お会いできたら光栄です。


*個人セッションは、医療行為ではありません。




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by masumihug | 2016-10-19 19:16 | 個人セッション

それは自分

10月11日のブログ記事
は、
実は、7月に書いたものでした。

読み直しながら、修正を何度も加えていて、
そのうち、そのままになっていました。

そして、つい最近起きた
胸の痛む事件の報道を見て、
「そう言えば。。」と、
自分が下書きしていたこの記事のことを
思い出しまして、
修正を完了させたと言う次第です。

私が書いた記事は、
なにも、「会社を辞めちまえ」とか、
会社勤め自体を否定する意図は全くないです。

私自身、会社員時代が長かったですし。
そこで培ったものも大きい。感謝もあります。

ただ、「置かれた場所で咲きなさい」
と言う、一見やさしさや洞察に溢れたような
言葉が、この日本の伝統、文化、慣習から
かけ離れたものではなくて、
むしろ、その文脈から生まれた言葉であるなぁ
と思うワケです。

それは、彼女、まつりさんが働いていた
職場が持つ文化や雰囲気と出自が一緒なワケです。

そこに気がつくことが求められていると
私は思うんです。

言い方、場面、が違うだけ。

だからね、
実際には、解りにくいんです。
見分けがつかない人がいても仕方ない。

なによりこの本、売れてるんですから。
多くの人が賛同しているってことです。

この本の読者が、一方で、「電通の人でなし!」って
同じ口で言ってる可能性があるワケです。

こうやって並べたら分かるけど、
この空気の中にいたら、
解りにくいのです。

「違和感」に敏感でありたい。
「口当たりの良さ」よりも。

日本の伝統、文化、習慣。大好きです。
その精神性は、確かに私の土台の一部を作っていると
感じています。

そして、一方で、
「(個体ではなく)液体であれ」
「生産しない者に価値なし」

と言うメッセージが
教育の場や、コミュニティー、或いは家庭の中に
今でも
有形無形に込められている、と、感じています。
結構厳しいメッセージと感じます。

そういうメッセージが生まれ易い
土壌なのかもしれません。

表面的には、
「個性を伸ばそう」
「あなたはあなたのままでいい」
なんて言ってますが、
二枚舌です。

信用すると梯子を外されかねません。
そんな恐怖を感じます。

大人になりたての人や、特に女性にとって
(最近は男性にとっても)
社会に出てから、二つの価値観とどう折り合っていくかは、
非常に迷うところだと、私自身の経験からも
容易に想像できます。

そこに、個人的な事情もレイヤーされて来ます。

彼女は母子家庭の中で育った方です。
もしかしたら、早いうちに大人になることを
自分自身に求めたかもしれません。

頑張り屋さん。
もっと言うと、誰かの物差しに合うように
行動することがとても上手です。
逆に言うと、自分自身の物差しがない人かもしれない。
自分の物差しを作り損ねたというべきか。

職場で関わる複数の人たちの物差し全部を満たすことを
してしまいがちです。
自動的に自分を脇に置きます。
一日24時間じゃ絶対足りるワケありません。

この事件は、そういった文化や環境や個人の背景などの
条件がぴったり合ってしまった延長にあるのではと
想像しました。

あくまで私の想像です。

そして、育った家庭の事情によって、自己愛が
健全に持てない若い方がとてもとても増えています。
一見明るく健康的見えます。
そう見せるのがとても上手なんです。
ところが、中身はボロボロだったりします。

ごくごく普通と感じる会社の業務、会社生活も、彼女彼らに
とっては、いっぱいいっぱいです。

ひいては、注意散漫になります。
信じられないくらいの初歩的なミスをします。
「バカだな」「学歴いいのに結構頭悪いね」
「やっぱりゆとりだからね」
そんなことが囁かれます。

本人も薄々気づきます。
余計に緊張してパフォーマンスが下がります。
日々の食べ物にも気を使うことができません。

だからと言って、
誰がそれをケアするでしょう。

同僚は、家族じゃありません。
上司は、親じゃありません。

生活や、躾は、会社が受け持つところではない。

やはり、本人、家族が、
受け持つところになって来ます。

このニュースに絡んで、たくさんの人が
周囲は無理してでも病院へ連れていくべきだとか、
周囲の人は気づいてあげなくてはとか、
自分はそうしたいとか、
書いておられる方を多く見ました。

そういうお節介や強制、強要があったらよかったかも
しれません。

実際のところは、当事者しか分かり得ません。
そうしたいと思って葛藤していた人も周囲にいた可能性もあります。

繰り返しますけど、中にいると分かり難いのです。
判断しにくいのです。

つい、自分に湧いてくる「違和感」を打ち消してしまいがちです。

「カラダがもつなら、今まさに、この人の頑張り時だよな」
なんて、思っていた人もいるかもしれません。

「まさか死ぬなんて。」
「あの時感じた自分の違和感に従ってみればよかった」
と、後悔している人がいるかもしれないです。

悪い人ばっかりじゃないです。

日本は、元々きついコミュニティー文化を持ってました。
地方へ行けば恐らく今だってそうです。

「コミュニティー=家族(肉親)」
のような考え方にすぐになります。

そして、ありがちな方向として、
最悪なのは、

「周囲の人に気を配りましょう」なんてスローガンが
できたり、更に最悪の場合には、
ルール化されたり、義務化されたりなんて、
阿呆らしい事になったりします。
「絆」とか名前がついたりしたらもっと最悪です。

ただでさえ、
ルーティンだけでいっぱいいっぱいな社員達、
一億総活躍しなくちゃいけない人達、
ワークライフバランスで早く帰宅しなくちゃいけない人達、
早く帰って妊活の為のセックスをしなくちゃいけない人達、
に、
また更にやる事が増える事になります。

結局、コレ、きついコミュニティー文化そのものです。

日本以外の場所に住んでいる日本人(プロブロガー?)が、
日本人は冷たい、日本人はお節介しない、日本のサラリーマンはバカだ、
日本の悪しき習慣だ、と糾弾しているコラムも見ましたが、
この人こそ、そんな離れた場所で、つまり安全な場所から、
そんなことよく言えたもんだと、これについては私は
違和感しか感じませんでした。

こんなふうに、個人的なストーリーに火がついて、自己制御を失い、
個人的な意趣返しを、まつりさんの墓前で発散させている人がいます。

故人に失礼です。
何かしようとしてた人、いるかもしれないんです。

そして、誰かを過剰な感情で糾弾している人は、
そこに自分を見るからです。

冷たくて、お節介ができなくて、思考停止のバカで、
コミュニティーの空気を読み過ぎて硬直してしまう
のは、あなただからです。

だから、日本から出て行ったのでしょ?
コミュニティーのきつさに嫌気がさしたの自分でしょ?

「日本にいると自分はダメだ」と、やっぱり誰かのせいにして。

どこへ行ったって同じです。

それは、自分なんです。
それを知ることです。

話が逸れたかもしれません。

いつの時代でも、
例えば、戦争や国民みんなが同じように
ぎりぎりの体験をした後に、個人個人の辿る道が
違うのは、どんなふうにサポートされたかです。
どんなサポートが自分に必要だと求めたかです。

精神的に安定した親がいる人は、非常にサポートされるワケです。

安心してサポートされた経験は、
自分が自分を健全に愛すること、大切にすることを
育むことを支えます。

これに尽きると私は思います。

残念ながら、家族との折り合いが悪い方もいらっしゃいます。

朗報は、後からでもできます。ということです。

家族と死に別れていても、今家族とダメでも、
自分自身とじっくりと時間をかけて向き合うことで、
開けてきます。必ず。
これは、どんなことに努力するより、やる価値のあること
だとわたしは思います。

自分自身を救う方法です。

まつりさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
彼女を想うと、涙しかありません。

わたしはあなたの家族じゃないし、
あなたのコミュニティーに居た人じゃない。
そして、あなたを抱きしめたいと感じます。

そんな人が、今たくさんいることを彼女に伝えたい。
そして、生きていたときだって、多分そうだったはずです。

周りの人は、あなたを尊重するから、弱きものとして
扱わない。

弱きものとして、言い換えれば、守るべき存在として、
あなたを扱えるのは、あなたの親だけなんだ。
そして、あなたが思いっきり甘える権利を一生持っているのも親だけなんだ。
理由なしでいいのは、親子だけなんだ。

ずっと、大人でいたのだものね。
そんなこと分からなかったよね。
初めて、子供になれるかもしれなかった機会だったかもしれないね。

あなたがどうしたかったか、
この世へメッセージを送ってほしいよ。

あなたが死んだことで、
国が動き出したね。

日本中のあちこちで、
あなたのことが話されているよ。

だけど、
それは、あなたの本意かどうかは
私は分からないなと思っているよ。

あなたは、ただ、
お母さんに抱かれて
ただ甘えて、そうすることで、
お母さんもよろこんで、
そのよろこびが
くっついた身体を通じて伝わってくる。
それが永遠に感じられる。
そんな、甘い時間を過ごしたかったのじゃ
ないかと、想像するんだ。



(念の為に書きます。まつりさんのお母様に責任があるという
意味ではありません。愛する娘を失ったお母様のご心痛を想うと
胸が痛みます。そんな中マスコミに対応もされていらっしゃるのは
ひとえに娘の死を無駄にしたくないという強い思いでおられるの
だろうと想像しています。)




〜個人セッションでお会いしたいです〜

120分間、自分自身に最大の興味と関心を向ける
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by masumihug | 2016-10-16 06:35 | 所感

あなたが、なにか。。

もっと上手にそれができたらいいのにって

思うことが何かありますか?


或いは、過去にそんなふうに思っていた

何かがあったでしょうか。


それが出来ないって感じることは、

あなたが、それに対する要求レベル、

すごく高いんだね〜。と、

思うんです。


出来ないんじゃないんだ。


むしろ出来てる。


もっと言うと、

そこに才能がある(可能性がある)。


そこに、どうしても妥協できない

基準のようなものが、

あるのじゃない?


だからこそ、

本人の要求レベルが高い。


と、言ったら、

どんな感じがしますか?


出来てない感が高まる。

欲求不満になる。


と言うことは、

がっかり感が大きい。

(がっかりは、先に期待があってこそ生まれる)


ひいては、やらなくなる。

これは、実にもったいないこと。


どうでもいいことだったら、気にならない。


要求レベルが高い。と言うことは、

「違う、そうじゃない。」

と、(笑うとこじゃないんだけど)

と、言っていることが多いかもしれません。


「そうじゃないんだよ!」って

感情が湧いてきてるのも受け取っています。


「そうじゃない」

「なんか違う」


ダメ出しばかりしている自分にも

ウンザリしてきます。


一方で、


どうだったらOKなのか?

どんなものを求めているのか?


と言われると、「。。。。」

それを描写することは、

難しい。。と感じているかも。


本人も探している。

もしかしたら、四六時中。


そして、「どうせ見つからない。」

と、がっかりしているかもしれない。

絶望しているのかもしれません。


「見つからないものを探している」って

思い始めているかもしれないです。


多分、外へ探しに行っても見つからないです。


誰も再現できないものだからです。

誰も、見たことがないものなんだと思う。


あなたのそのレベルには誰も届かない。ワケです。


のだったら、

あなたが創れる可能性があるワケです。


探しているモノが、

あなた自身の可能性があります。


あなたの中へ探しに行く価値がある。

あなたがちょっとそこは粘る必要があるかもしれません。


今まで散々外へ探しに行ったことを考えれば

なんてことないです。


散々陳腐なものを見てきたあなたは相当な目利きになっているし。

そのための修行だったんだね。って、

わかるかも。


自分の中へ探しに行く時。


あるはずです。

だって、「それ違う」ってあなたが言う時、

あなたが基準にしてるのは、

あなたの中に確かに存在してる「物差し」だから。


それを、探求しに行く時です。


あなたにとって、外にあるものを採用する時代が一通り終わった

時なんだと思います。


おめでとう。




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by masumihug | 2016-10-15 01:49 | 個人セッション


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『置かれた場所で咲きなさい』
という本はとても売れたらしいです。

この言葉はキャッチーで、
聞いた途端に、
何を言わんとしているのかぴったり分かる。
そこが、危険なところだと感じています。

わかったつもりの思考停止が起こる。

そして、誰しも、ある程度の年齢なら、
そんなシチュエーションを体験しているから、
すぐにその記憶や、あるいは、現在の状況と
結びついてしまう。

そして、こんな風に思う。

「そうだよね〜。」
「会社辞めるなんて、考えるのよそう。」
「もうちょっと頑張ってみよう。」
「なんか。。私、逃げてたのかも」
などなど。。。

人は変化を嫌う。
もっと言うと、
「無意識」は、ありとあらゆる変化を恐がる。
ように出来ている。

だから、この言葉は、無意識にとって都合が良い。

人が、人生の成長の局面にいる時、
必ず葛藤が起こる。

自分自身の中で起こってくる変容への
エネルギーと、
それに対して、
無意識が押しとどめようとする力が
拮抗している。

「いつもの私」
「(うっすら存在しているのを知っているけど)
まだ発現させてない私」
が、
せめぎ合う。

人生で、何度か訪れる。

そんな時に、
この言葉を見ると、

「そうか、やっぱり私、ちょっとのぼせてたのかもしれない」

そして、正直ちょっとホッとするかもしれない。

「チャレンジしなくて済んだ」って。

但し、うんざりする日常は何も変わらない。
もうすっかりうんざりしていて、
自分自身を少しずつ殺しながら
1日1日をやり過ごす、
あの知っている日常へ戻るだけだ。

その戻り方も、
二通りある。

心理セッションや、
自ら葛藤と取り組んだ末に、

「私は、自ら、今置かれている場所で
生きてみることを、選択し直したのだ」。

であれば、

それは、葛藤に留まって、自分自身と対話するプロセスを経て
導き出された選択になる。

「置かれた場所で咲きなさい」と誰かから命令されたのじゃない。

意識して、選んでいる。

もしかしたら、
その葛藤とのプロセスの中で、

自分の、ニーズの核と出会うかもしれない。
或いは、
「今は、判断できない」「だから、あと1ヶ月だけやってその時決める」を、
決めてるかもしれなし、
stayだとしても、具体的な得たいサポートについて明確になったかもしれないし、
それを誰に、どう伝えたらいいかはっきり見えているかもしれない。
何れにしても、
なにかが具体的で、自ら選んだ、という感覚の中にいるのは、
自分自身のパワーを取り戻すことができる。

自分の権威を自分に取り戻す。

が、

一方で、「葛藤」に留まることなく、
自動的な反応で、
つまり、
自分の中の、「恐怖」を動機に持つ方の選択肢を
「無意識に」選んだ結果だったとしたなら、

それは、繰り返されているいつものパターン
かもしれない。

そこに気づくでしょうか。

そんな時に、「置かれた場所で咲きなさい」なんて
したり顔のクソバイス(アドバイス)。

自分自身を救う機会を、
自分自身で摘み取っている可能性がある。

当たり前のことだけど、
植物は、自分に合わない場所では枯れてしまう。

そんなこと、誰だって一度や二度なにかお花を育てた経験で
知っているでしょう。

植物は、咲く場所を選びます。
確実に。

「置かれたのだから、頑張ってここで咲いてみよう」

そんなこと考えるのは、人間だけです。

植物は、ムリしたら死んでしまう。

そして、
植物も、人間も、同じく「生きもの」です。

人間である前に、生きものです。

ましてや、人間には足があるので、
そこが好きじゃない場所なら、立ち去ることが可能です。

より自分にとって心地良い場所を求めて、
移動することが可能です。

自分という生きものが、イキイキと生きていくのに
何が必要か、
何が自分をよろこばせるのか、
栄養になるのか、
どんなサポートが必要なのか、
詳細に知っていくことはとっても大事です。

自分自身を大切にする方の生き方を、
私だったら、選びたい。

向き合うことで、
それが選択肢になります。
選ぶことができます。

咲けない場所で、ただ枯れていくに任せるなんて、
まっぴらです。

ゲシュタルトセラピーをつくった
フリッツパールズが彼の著書の冒頭で言っています。

「人間らしく」と言うけれど、人間である前に
私たちは「生きもの」だ。って。

現在の多くの病理が、「人間らしく生きる」
という考え方にあるのじゃないかと言っています。

すごくざっくりした言い方になってしまうのだけど、
書いてみますが、
欧米人の言う、このパールズの発言がされた時代なら特に、
「人間」の定義は、やはり、
ある一定の宗教の影響が色濃く反映されたものと
想像します。
人間の反対は、獣。という考え方です。
私たち日本人の一般的な概念とは、恐らく少し違います。

最近よく聞く言葉「反知性主義」なんて考え方も
この辺りと重なってきます。

日本人は、自分は「人間であり、生きものだ。」
「人間も、動物も、植物も、同じ生きものだ」
と、すんなり
言えると思います。
その辺に、ちょっと前提の違いがあると思います。

そして、日本人だって日本人の文化や精神性やそれら土壌があって、
「人として生きる」ということに
結構な前提があると思います。
(それに対して自分としてどんな態度でいるかに関わらず)

だから、
様々な文化的な背景や、自分自身のフィルターから
ちょっと離れて、
「生き物として生きている自分」に
時々立ち返ってみることは、
良い機会になります。

「私は、今、生き物として生きている。」
という席に座ってみるワケです。

ゲシュタルトではよく
「有機体」と表現したりしますね。

頭で考えたようには
生きられません。

生きちゃっているという実存の方が、
何よりの証拠です。

あるいは、もし「死にそう」という実存が
あれば、それが事実です。それを見なくては
いけません。

生き物にとって、「死にそう」は、
最大の優先事項のはずです。

が、

生き物としての自分は「死にそう」
人間としての自分は「大丈夫、そんなことない」
こんな状態が起こり得ます。

そんな、股裂状態、葛藤状態、
身に覚えがあるでしょうか?

いわゆる、トップドッグとアンダードッグという状態。

「死にそう」と言う事実に対して
「大丈夫」とは
事実を捻じ曲げています。
捻じ曲げるその動機は何でしょうか?
見てみる必要があります。

そこにあなたのストーリーがあるはずです。
非常に興味のあるところです。
探求するに値する場所です。

もっと言うと、あなたをあなたたらしめる
エッセンスがある場所です。

人生は、体験と選択の連続で、
それによって、
自分自身の「取扱説明書」を増やしていく
プロセスだと思っています。

自己理解が深まれば深まるほど、
自分自身にくつろいで、
自分を表現して、
そして、時にチャレンジする
エネルギーに任せてみることができます。

個人セッションの場は、
自分自身の中へ、ゆっくり丁寧に、
礼を尽くして、優しく、探求しにいく機会です。
この自己理解へのプロセスの場です。

それが、体験的に起こってくる場です。
あなたの探求にご一緒できたら私の幸せです。

個人セッションでお会いしたいです。

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by masumihug | 2016-10-11 06:10 | 個人セッション

悩みのるつぼ

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朝日新聞の土曜日に入ってる『Be』。
その中に「悩みのるつぼ」っていう
いわゆる人生相談がある。

私は、たま〜にそれを読む。
なんというか、毎週読みたいという気にはならない。

時々、「読んでもいいか」って心と息を合わせてから
読む。

回答者(というのかな?)は複数の有名人が交代で
担当してる。有名な黄色い髪のおじさんの時と、
このフェミニストの方の時は、読んだ後、何か、
胸に寒風が吹くような感じがする。

こう感じるのは、私だけなのか?
このコーナー、長年続いている。

今回も、なんだか、モヤっとしていた。

その「モヤっ」に、
向き合ってみる。

まずは、
こんな疑問があることに気づく。

こんな回答をもらって、ご本人はどうお感じに
なるのだろうか?
というか、これはそもそも回答なんだろうか?

そして、

私には、
こんな風に聴こえるんだ。

「みなさ〜ん、こんなおバカなオンナがいるわよ〜
これだから困るのよね〜
フェミニズムが進まないのよ
どうしてみんな私みたいじゃないのかしら?
どいつもこいつも。。
だから、オンナは、ダメなのよ。
あら?私、なんてこと言ってるかしら
私はフェミニストよ
女嫌いじゃないわよ」

自分のプライベートを晒して、
困っていて、
あなたに意見を聴きたいって言ってる人がいて、
それ自体、「あなたを見込んで」と、無条件で
回答者に信頼を寄せている人に対して、
「お前こそ男に依存しようとしたんだろ」
「自業自得じゃ!」
と言っているように聴こえる。

だって、「男性に(経済的に)依存して生きること」は、
長らく、今だって、日本の女性にとって生きる道(の一つ)だったこと
よーく知っていらっしゃるでしょうに。

日本の政府だって、それを奨励してきたワケです。
家の中のことをタダでやってくれる女性がいると、
男性は、仕事に一心不乱に打ち込めるってことで。
このことに夫婦で合意ができていた時代が長くあったワケで。

それに、この人はこれからも夫とやっていく、やっていきたい
という前提で、どのようにしたら良いか?を聞いているように
思うのです。

言ってみれば、この方は、この夫がその人らしく、
先生の言い方を借りれば、オタクらしく、いられるように、
研究で実績を上げられるように、寄り添って、
そして、寄り添うことがこの人の仕事だったのだと想像します。

いやもっと、この人の人生だと信じてやって来られた。

そして、これからもやっていこうとしている時にふと、
「あれ、私の人生もあった?。。よね」って気づき始めて
いるのではないでしょうか。

言ってみれば、この相談者の方、
初めて、この66歳になって初めて、夫の手が離れて、
自分を意識し始めることが叶いつつあるのかもしれません。

悪い言い方かもしれませんが、男性の平均寿命は女性より
短いのです。そんな、人生の終わりの端っこが見えてきたとき、
ふと、「気づいた」感覚があったのじゃないでしょうか。

想像し過ぎでしょうか。

相談者さんが言っていらっしゃることは、誠に俗っぽいことですが、
それに惑わされちゃシロウトです。

そこを辿っていくと、深遠な人生に対する想い、願い、
のようなものが見えてくる可能性があります。

だってだって、それまで生きていた世界とは、ちょっと
次元が違うのです。ちょっと斜め上?或いは、ちょっと下のレンジ
と周波数が合ってきたのかもしれません。

だから、まだ、ビギナーなのです。
ゆっくり丁寧に扱わなくちゃ、壊れちゃいます。

素敵じゃないですか。
私は、そう思いますよ。

この先生のご専門だと思われるけど、女性の自立と関係がありますよ。
何歳からだっていいじゃないですか。
環境が整ってきたのが今なのかもしれません。
安倍首相が作った風潮がひょんなところで花咲くのかもしれません。

私だったら、そんなふうに言うかもしれません。
是非お会いしてセッションをさせていただきたいです。

そして、私の「モヤっ」に、
戻ります。
そうです、回答者に感じる私のモヤっを辿っておりました。

そして、
こんなふうに、私は、想像していることに
気づきます。

「この人、人ぎらい?」と、勘ぐってしまいます。

ひいては、自分ぎらい、かもしれません。

はい、私の勝手な想像が膨らんでいくのに気づいています。
それをしばし許します。

なにかあったのかなぁ。
もしそうなら、
それを糧に、こうやって大学教授にまでなられたんだね〜。
このポジションを手に入れて発言することで、
個人的な体験を昇華されていらっしゃるのかもしれないなぁ。

自分をここまでドライブする情熱の源になる程の
「悔しい」か「悲しい」か「ちくしょー」か、わからないけど、
の、体験をされたのかもしれないな〜。
それもパワーになるものね。
すごいね、人間て。

そして。。。
ここまでの地位を手に入れて、なお、
これ程の影響力を持ってなお、
この方は、
その感情は完了してないみたい。
延々と脳内で再生され続けているみたいに見える。

なんというか、攻撃的、嫌味、ちくりと刺す、
をしないと気が済まないようだなぁ。
立場の弱い相談者にまでそれを向けてしまうんだもんな。

私としては、愛が、感じられないと感じてしまうのだ。

ちょっと逸れるけど、
この方から受ける印象によって、
私の中では、フェミニズムが、
なんというか残念なものになっているのは確か。

「闘う」という選択肢しか取れない残念さ。
というかね。。。

自分自身との付き合い方に、「闘う」だけじゃなく、
複数の選択肢を見つけられたらと願う。

この人の愛はどこにあるんだろう?
何に向けられてるんだろう?
きっと何処かにある。
それを、知りたいなぁ。

これだけの影響力をお持ちで、
ご自身でもそれを行使していること重々承知のはず。

自分自身のそこ、自分が自分とどんなふうに付き合っているか、
そこに何かパターンはないか?を見ていくことは、
自分自身を楽にするばかりでなく、お仕事、日本でこの方が
果たす役割にも貢献すると想像します。
心からそんなことを願います。

私ごときが差し出がましくすみませんが。

ここまで、私が自分自身のモヤっを辿って、
ここまでのプロセスを経ると、
私は、この方が少し好きになっている?
いや、まだ好きではないな、
少なくともモヤな感じはなくなって、
ニュートラルに相対していることに気づきます。

私の居る位置が変わっている。
見方、対象を見る質が変わっている。

そして、
興味と関心がぐーっとこの方へ向いていきます。
そんな衝動が、今、自分に起こっていることにも
同時に気づきます。
これは、大きいことです。

「興味と関心を向ける」

因みに、
マザーテレサの言葉で、
「愛の反対は無関心です」というのがあります。
「愛の反対は憎しみ」ではないです。
憎しみは、その人に関心がめちゃくちゃ向いていますからね。

モヤっを辿ったかいがありました。
これが、ゲシュタルトのいいところです。

いろんな対象とコンタクトを作っていく
可能性が開けます。

その対象は、まったく変わりはありませんが。

(だけれども、こちらの視座や質が変化すると、
あちらが出してくるものが変わるというのはよくあることです。
量子物理学とも通ずる定説です。)

ちなみに、ここの回答者で
回答がおもしろいのは、
岡田斗司夫さん。

回答の仕方がうまいな〜と思います。
流石です。

個人的なようで商業的。
相談者本人じゃなくても、読み物としても
おもしろい。
プロだなぁ〜と思います。



〜個人セッションでお会いしたいです〜

120分間、自分自身に最大の興味と関心を向ける
あなたのための時間です。
あなたがあなたと出会っていく時間になります。

 



いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。









by masumihug | 2016-10-10 06:20 | 所感
ノーベル医学生理学賞を受賞した
大隈良典さん。

風貌が、いい感じします。

ここ3年連続で、日本人が受賞していて
その人たちのお顔や、ニュースや新聞で読む限りの
情報ではあるけれども、人となりを読んで思うのは、
こんな世界的な賞をもらう人は、
間違いなく世界のトップなのだけれども、
「生き馬の目を抜く」って感じではないなぁ
なのです。

どこかくつろいで、飄々としていて、
穏やかな精神状態にいる人のように見える。

その人のもっとも土台を成すところが、
とても自然な、いきものとしての人間であって、
人に備わる健全さやまともさをそのまま表に
出していて、それをくったくなく信じている
ように見えます。あくまで私の感覚です。

そして、続けて想像するのは、
恐らく、この感じはその人たちが研究を行う上でも
そのもっとも基本的な前提になっているとも言える
のだろうなぁとも思います。

だからこその、根気強く、忍耐強く、或いは言葉を変えれば、
飽きずに好奇心を持ち続けて研究を続けていくことを可能に
するのだろうなと、そんなふうに思います。

そんな特徴と日本人であるということに、関連性があるような
気もしてきます。

いずれにしても、偉業を成し遂げた人たちに心から
祝福を送りたいです。

そんなおおらかな大隈さんが真剣に訴えている。
それを読んで、
私もとても共感した言葉があります。

「役に立つ」という言葉がとっても社会をだめにしている

その発言の文章の一塊は↓です。

私は「役に立つ」という言葉がとっても社会をだめにしていると思っています。数年後に事業化できることと同義語になっていることに問題がある。本当に役に立つことは10年後、あるいは100年後かもしれない。社会が将来を見据えて、科学を一つの文化として認めてくれるような社会にならないかなあと強く願っています。

(記事本文から引用)

「役に立つ」=「事業化出来る」
つまり、
「役に立つとは、金になるかどうかだ」
ここに問題がある。
と言っておられます。

その価値観、
判断基準は、
何も基礎科学の領域に限らず
身の廻りに溢れているように思う。

その商品は、
その食べ物は、
そのエクササイズは、
その勉強は、
その仕事は、

役に立つのか?
お金になるのか?
得か損か?

一見、知的。
賢い選択。
納得感。
説得されてしまいそうです。

そして、
その範囲は、人にも及ぶこともあって、

その人と友達になることは、
その人と結婚することは、

役に立つのか?
お金になるのか?
得か損か?

そして、
そこを辿っていくと、

「役に立たなければ、つまり、
金にならなければ、存在する意味(価値)がない」

というような、
徹底的な合理主義者に出会うことがあります。

この言葉が自分の中に説得力を持って存在する限り、
しばしば自分自身にも同じ鋭さが向けられていることを覚えていてください。
いわゆる、ブーメラン。

外へ向かって使われている価値基準でもあるし、
それはまんま自分にも向けられて、
厳しい自分チェックが24時間体制でONになっています。

これは、苦しいです。

実は、セッションの中でよく出てくるテーマ
でもあるんです。

多くの人が、いわゆる「ジャッジ」を自分の中に
住まわせています。

これに苦しむのは、
この言葉が、自分から自然に発生したものではない
からです。

人生のどこかで自分に取り入れた考え方。
つまり、誰かの価値基準。

自分自身の価値基準ではない可能性が高いです。
自分自身のものではないので、しょっちゅうブレます。

試しに、この「ジャッジ」になってみると分かります。
ゲシュタルトでは、何かになってみることができます。

このジャッジ自身、不安定で、ブレブレなことが分かります。
そして、自分自身をまったく持っていません。
つまり、「自分はどうしたいのか」がありません。

常にキョロキョロしていて、目移りしています。
魅力的な言葉に出会うとすぐにそれを取り入れて、新たな基準として
また偉そうに批判してきます。

中身が空なので、なんでも入れるのです。

いつも「あなたは(お前は)」から始まります。

「私は、」から始まりません。

ただ、この「ジャッジ」も、誕生秘話があるはずです。

そのときの動機は、そのジャッジの飼い主であるあなたを
より良くする、生き延びさせる、うまく切り抜けさせる
だったりします。

そうなんです。
あなたの生命を維持するため、守るため、より輝かせるために
生まれてきたはずなんです。

だから、時々一理あることを言っています。

言い方が、だんだん過激になって行った経緯があるようです。
愛が感じられなくなっています。

子育てしているお母さんとちょっと似ていますね。

ジャッジの大元の想いに触れてみることが、
セッションの中でできるかもしれません。

ジャッジ自身も忘れていることです。
ジャッジ自身が、安心することができると
それが聴けるかもしれません。

それが起これば、
ジャッジはとても有能な頼りになる秘書のような
存在になり得ます。

聞く価値があります。
元々の役割を発揮してくれています。

あなたを凹ませる為に存在していたかに見えたジャッジが
変容をとげます。

ジャッジと和解する。
実は、自分自身との和解です。

話を元に戻すと、
戻るのか?(笑)

大隅さんのようなノーベル賞レベルの人たちが
こんなふうに鷹揚で、それでいて
世界レベルの発見をしてしまうのは、
この、ジャッジとの付き合い方を
心得ていらっしゃるからじゃないかと
想像するワケです。

それは、天然なのかもしれませんけれども。

人生の中で、研究に打ち込む中で獲得してきた
境地なのかもしれません。

自分の帰る(還る)場所、ホームを持っている
ことは、ジャッジとの和解では大きく貢献する
ことは確かです。

何か一つのことに、取り組むことが
なかなか真似することができないと言われる
その正体は、実は、ジャッジとの付き合い方に
扉が開かれているのかもしれない。

そんなふうに、
今書きながら、着地してきました。ね。笑

うん、これが、正解かは分からない。
今、私のジャッジが慎重にジャッジ中。笑

そして、
私自身に、今、納得感があることに
気づいています。

今の時点での、着地点とします。

読んでくださってありがとうございます。



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by masumihug | 2016-10-08 06:37 | 個人セッション

「違和感」を大事にして生きております。


何故かといえば、違和感を丁寧に辿っていくと、

自分にとってびっくりするほど的確なメッセージに辿り着くから。

そして、自分自身に落ち着いてくつろぐ感覚へ着地することが出来る可能性があるから。

です。


私が、セッションでやってるのもほぼコレです。


生きていると、朝から晩まで、いろんな「違和感」と出っくわします。

ちょっと前だけど、この広告もその一つ。


だけど、私、辿らなかった。

「もういいよ」って気になってしまった。

「痛々しい」

目を背けて、思考停止。というか、「思考中止」。


いや、もっと正確に言えば、

「思考禁止」?

してしまったんだ。


そして、この記事に出会って、

自分の違和感が、言語化された気がしました。

坂之上洋子さん、ありがとう。


特に、最後のところ。


(記事本文より引用)

女が生き残るのに「裸」を使わないと戻れないのか、という違和感が。

そこまでやって初めてよくやった「覚悟できたんだな」と言われておるような違和感が。


これを拝読し、

私は、


あの時自分の中に、違和感が起こったんだと考え直し、


その違和感の中身が、


そうだよね~、

「オンナは、ここまでやらんといかんのだよね」って気持ちがある。のに気づいて、

「そういう「伝統芸」を踏襲すれば済むと思ってる人がいるんだ」って言葉がある。のに気づいて、

「ちょうどいい素材(ベッキー)あるじゃん。かよ!」「人(見る側)をバカにすんな(企画した人に対して)」

その一方で、

「ポーズが中途半端で伝統芸を踏襲までに至ってない!それ風で、再起への覚悟?笑わせないでよ!」

「此の期に及んでまだ誤魔化すんだ、あなたは」


こんな言葉が出てくるのに気づいています。

この言葉たちの背景には、いくつかの種類の感情が混じって存在している。

そして、その感情は、私自身の過去の体験が出所になっていることに気づく。


私は、私自身の中にある、ある種の感情を膨らませそうだと想像して、

それは今は持ちきれないと想像して、

私は、あのとき違和感を辿るのを避けたんだと、わかってきます。


ベッキーを避けたように一見見えますが、

実際避けているのは、自分自身に起こってくるだろう「感情」

です。


無意識のなせる技です。

トリッキーなんです。


だけれども、

こうやって時間的にも感情的にも、

余裕のあるときだったら。

そして、こんなふうにご自身の違和感を開示して

くださる人がいたら尚更、

自分自身の違和感を辿っていくことが可能です。


環境さえ整えれば。


そうです。違和感を辿るには、

安全な環境と、ゆったりした時間も含めた

スペースが必要なんです。


日本中で、こんなことが行われたらいいなと

思います。


もちろん、人それぞれ違うものになる。

その一方で、

どこかそこにじわっと通底しているもの、

また、共有出来るものが見えてくるかもしれない。


で、実際、いま、見えていると思う。


あまり、この広告が受け入れられてないという現実が何より表してる。

だけど、それが、ベッキーへの制裁のように翻訳されて、

そこだけに落ち着いてしまってはせっかくの違和感がもったいない。

違和感の誤用だ。って気がする。


で、何より、もし、ベッキー本人が違和感をもし感じていたのなら、

自分自身で、優しくゆっくり辿っていくことがされたらいいなと、

願う。そして、その表現がいつか何かの形になって伝わってきたらいいなと、

心から思う。


そのとき本当に、この人は、

あたらしい服を身につけ、(裸じゃなくてね)、

歩き出すんだろうなと想像する。

賛同か、共感の拍手と共に。オンナたちからの。


で、こう書き終えると、

私自身の観点が変化してきたことに気づく。


ベッキーの切ったばかりのような短い髪に目がいく。

そして、よく見れば、彼女の二の腕は、細い鳥の骨みたいだ。

今、生々しく感じられて、呼吸まで伝わってくるかのよう。


私の座っている位置(心理的な)が変わっているのに気づく。


この人を、ねぎらい、抱きしめたいという気持ちにまで

今なってることに気づいています。


ここまでのプロセスを経て、

この広告と初めてコンタクトできた

ような気がします。


そして、実は、私は私自身と今

コンタクトしたワケです。


私自身の内側と触れ、そして、自分自身をちょっと理解した。

抱きしめたいのは、自分自身というワケです。

とっても、ミニでプチだけれども、

ある種の統合へのプロセス。


無意識の防衛機制というアラートシステムが

発動していたことに気づくことで、

純粋な、純正な、ニュートラルな、bareな気づき、

(手垢のついてないと言おうか)

へ戻ることが出来ます。


この広告が媒介してくれました。


ベッキーご自身が、どんな意図で、どんな気持ちでいるか。

ましてやこの広告に違和感を持ってるかどうか?なんて

まったくわかりません。その上で、それを承知で、それを前提に、

何か同じ女として同志のような共感を覚えているのも確かです。

それを、身体感覚でも感じています。


「共感を覚える」という体験が私の中で起こっているだけで、

この場合の私にとっては十分です。


そして、その共感が私の全てではないことにも気づいています。

多観点でいて、自分自身でいます。落ち着いています。

これは、楽な感覚です。


そして、おもしろいのは、

このプロセスを経て、

同じ対象を前にして、

違和感から共感までもが存在していることに

気づくこと。


併存してていい。


日常目にする気になるものや、違和感。

それは、自己理解、自己肯定感を導いてくれる

入り口になり得る宝と信じています。



いつも読んでくださり、ありがとうございます。
よかったらぽちっと↓ お願いします。
ありがとうございます。




by masumihug | 2016-10-07 15:26 | 個人セッション

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug