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栗城さんのこと

2011年か、12年か、
お正月が明けたばかりのNHKで、
私は見るともなしにテレビを見ていました。

その人の登山する様子は、普通とはちょっと違っていて、
見ている私は、何かとても距離が近いと感じた。
私は、彼のすぐそばに居るようだった。

一人で、自分自身を実況中継しながら、状況に取り組んでいる。
何か、とても辛そうで、言葉の表現よりも、
息遣いが既にすごく語っていた。

殆ど、忘れていたのだけれども、
多分、こんな感じだったと思います。

いつの間にか目を見張っていて、
惹きつけられてしまった。

とにかく、その情けない姿をあられもなく晒している
ことに、ものすごく、打たれて、涙してしまった。

こんな人がいるんだ。

そして、
年の初めの特番としてNHKが取り上げる程、

話題になっている人なのだと、
彼に賛同する人が大勢いるのだなと、
世の中は、私が知らないうちに随分と価値観が変わったみたいだ。と、

私なりに想像し理解して、
その後、ネットを漁って彼のことを調べたりしました。

賛同する人もいる反面、
こき下ろす意見もたくさん見ました。

そして、しばらくは彼の活動の様子を見るとはなしに、
追っていた。けれども、いつの間にか
やめていました。

そんな風にして、もう、忘れていたところ、
今回のニュース。

え!と驚きました。そして、死が、とても、あっけなく
感じました。

なんというのか。。。

そして、
少し、納得するような感覚もありました。
案の定というのか。

活動の様子を見るのを止めたのは、
何か、しいて言うならば、
「生きる」を無理やり作っているような
痛々しい感覚を覚えて、だったと
今、振り返って考えています。

恐らくは、
それは、私自身が彼に投影したのだと思います。

だから、これ以降の文章は、
私の想像の産物です。

彼の事実は、本人しか分かりません。
人が踏み込むところじゃない。

だから、
私の想像で、
彼を見て、私の中で起こったことを書きます。

ただ、言えるのは、

その時も、そして、いまも、
私が投影して想像してしまうほど、
私に何かを見せてくれている象徴的な要素を
彼から感じているのに気づいています。

私が彼からインスパイアされるものを少し書いてみます。


ただ生きているだけではダメ。
人に影響を与えなければ。
そういう人物でなければ。
という言葉が浮かんできます。

何か、生きている実感の為に、何か刺激を探していて、
登山、それも、世界最高峰に難しい条件を課して挑む。
ことに意味がある。

その苦しい様子を実況中継することで、
人々に対して、消費される餌を撒くような。
そんな感じがしたのです。

誰かがそれを欲している(だろう)から、
自らその餌になる。

「登山家」じゃなくても、
もしかしたら、別の「アイデンティティ」
であっても、別に構わなかったかもしれないように思います。

だけど、「登山家」「エベレスト」の中にある要素が、
彼が欲するアイデンティティを更に魅力的にする(強化する)要素として
ぴったりに見えたのじゃないかと想像します。

それが、私には透けて見えるようで、私自身の胸が痛む。
いやいや、それは、私自身に突きつけられるから、痛むんです。

私自身が、
こんなふうに自分自身を無理強いしていたことを
思い出します。
だから、身体のどこかの鍵盤が押されて変な音を出すんです。

「私には、アイデンティティが欠けている」
そして、
「私には、アイデンティティが必要だ」
「それは、確固たるものでなければ」

彼もまた、
「私」というものを猛烈に欲しがっていた人
であったのかなと想像したのです。

「私」というのは、生まれてから片時も
離れたことがないものなのだけれど。
あまりに近くて、見えないんです。

亡くなった方のことをこんな風に想像するのは
不謹慎なことだと承知しています。

ただ、先に書いたように、
私自身が、身に覚えがあるので、
このことを知らんふりできないというのがあります。

続けてみます。

自分ではない何か。を、
自分に装着しようとすると、
身を削ることになります。

身体を犠牲にします。

逆に言うと、
身体を犠牲にして成り立つアイデンティティ
というのもあると思います。

半ば、それを知っていて、
それを選んだ可能性もあります。

ただ、思考上では、
自分に良かれと思っているので、
アイデンティティの確立と身体のしんどさが
関連していることに気づかない。

むしろ、
こんなことでしんどいなんて、自分はなんて弱いんだ。と、
また自分を責め、強化に邁進します。

あるいは、しんどさが、頑張っているバロメーターだと
勘違いします。

だけど、
もっと知っている自分は、
「苦しみが継続すること」の方が、
「アイデンティティのない自分」とがっつり対峙することより
たやすいし、マシ、と思っている可能性があります。

苦しんでいる限り、自分自身のありのままと対峙することを避けることが可能です。

時間を稼ぐことが出来ます。

対外的には、「頑張っている」テイを保てます。

だから、実現不可能な目標を掲げておくのは得策です。
いつまでも、時間稼ぎ可能です。

どこかにそれを知っている自分もいるんです。
そして、対峙することをとてつもなく恐いことだと想像しています。

自分ではない、何かになろうとします。必死に。
つまり、自分を徹底的に否定する試み。
つまり、自分が自分にする拷問。

一見、
「向上心があるひと」
「より良く生きる」に見えます。

その実、
自分自身の、「ありのまま」を完全否定します。

それが、ちょっとでも見えると、即消そうとします。

なので、常に、「死にたい」自分がいます。が、
「死にたい自分」なのではなくて、
それは、
自分自身の生命力が「生きたい」と言っている表れです。

だけど、あまりにも自動反応なので、
ありのままの自分が「生きたい」と、
もう虫の息の自分自身なのですが、それが出て来ると、
即刻殺しにかかります。

そういうシステムなので、「ありのままの自分」というのは
「死にたい」自分だと勘違いしている節があります。

生命力が死にたいと言うはずがありません。

こんなことも分からなくなります。

「自分がどうしたいのか分からない」が常にあります。

結果、自分ではないものになろうとして、なれず、
ありのままの自分が出てくると精神的に殺し、
そして、継続的に自分自身の肉体を痛めつけることになります。

身体が丈夫でないと出来ません。
なので、結構タフに作られている体を持っています。
そういう印象があります。

そして、どこかで気づくか、
拷問に疲れるか、
本当に殺してしまうか。
間違って、やりすぎてしまうか。

持続可能ではないことをしていますから、
なにかが起こります。

今回は、エベレスト。
トドメを刺そうとしなくても、あっという間に命の火は消えてしまいました。

限りなく死に近づく、近づいていくそのとき、
どこかで気がついたら、
戻って来ることは、少なくとも、一旦停止することは、
できたかもしれない。

だけど、あっけない。
エベレストは大きすぎる。

逆の言い方をしたら、
自分自身の攻撃のパワーが強すぎて、
エベレストの力を借りなければ自分を殺せないと
思い込むほど、自分自身をモンスターに仕立てて
しまった。とも言えます。

そして、
エベレスト級のモンスターとまでは言わないけれど、
常人以上のパワーの持ち主であることは確かです。

そして、そのパワーの使い方を、知らなかった。
自分を責める方へ使ってしまった。

人の人生の選択ですから、
私がどうのこうの言うことは、出来ません。

だけど、自分自身と重なるところが見えて、
これについて、何か、言葉を残して置かないわけには
いかないと思ったのです。

人生の一時期、
この私の苦悩を止めるには、自分の息の根を止める以外ない。
と、思っていたことがあります。
自分が自分を責めることから逃れるのは容易ではありません。

エベレスト登山くらいの拷問を課すしか、他になかった
かもしれません。

そんなふうに想像しました。

この方の死は、美化する必要はない。
そして、死ぬまで気づきが拡大しなかった。
残念としか言いようがない。

だけど、それも、人生なんだろうと思います。

暇つぶしの人生を、自作自演の人生を、
「自分の人生を生きる」へ変えたかったんだと
私は勝手に解釈しています。

「アイデンティティのないじぶん」
それでいいじゃないか。
「何にでもなれるってことだしね」
に、着地するまでには、
いくつかのアイデンティティの着ぐるみを
着てみることを繰り返して辿り着くというのもあるかもしれません。

あるいは、
この着ぐるみをどうしても着たい!
と、死に物狂いのダイエットをして、
ヨレヨレになって気づくのかもしれないです。

それまでは、「それでいいじゃないか」ってワケには
いかないよね。

だって、負け犬じゃんって思うから。

でも、誰に負けたんだ。

負けてもないし、勝ってもない。

そのことに気づいて、ふっと自分自身と対話した時、
「おれにはなんにも残ってねー」って言ったとき、
「やったじゃないか」って
「経験、だよ」って、
「なんであれやったじゃんか」「おれだけのユニークな経験」
「それが残ってる」「宝じゃんか」
それが、おれ。

俺の身体に、確かにその経験の一つ一つが刻まれている。
身体に、確かに記憶がある。
感覚がある。

着ぐるみは変わったけど、
ずーっと変わってないところが確かにある。

そして、その上に、経験という歴史を積んだ。
先祖代々の遺伝子の上に、オレの文化を重ねた。
それが、おれ。

俺の、カラダが、オレ。
オレ自身。

たった今のオレ自身を証明してる。
表現している。

そういう、ストーリーを
勝手に妄想しています。

ありがとう。
とても他人事じゃないあなたさま。
よくやったよ。
やったよね。

安らかに眠れ。
ご冥福をお祈りいたします。




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by masumihug | 2018-05-25 01:09 | 所感

映画『太陽』


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アレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』


ずっと観たいと思っていて、でも忘れていて、
中古DVDを入手する機会を得て、ふいに観ることができました。


おもしろかったです。
なんというか、鑑賞後の自分の感覚に、興味深く、います。


戦争を取り扱っている映画を観た後に、
こんな観点を得たのは、
初めての体験かもしれないです。

日本人ではない人が作ったから
かもしれません。いや、この監督の才能ということですね。


昭和天皇という人のことを、
あまりよくよく知ろうとしたことがなかったのだけれど、
だけれども、
ここ数年であの方の評価が変わってきていることくらいは知っていて、
それが事実かどうかは誰も証明できないけれども、
どうやら、そうらしい、平和を求める人だったらしい、
ということはなんとなく情報として知っていました。


そして、
ソクーロフというロシア人の監督が、
『権力者4部作』シリーズの第3作目に
昭和天皇を取り上げたことにもちょっとした驚きがあって、
その第1作目がかのアドルフ・ヒトラーだってこともあいまって、
とても興味がありました。そのタイトルは『モレク神』。


『太陽』は、もちろん、天孫である(とされている)昭和天皇のことを象徴している。
そして、それを初めて手放した人でもある。

作品は、もちろんソクーロフさんのフィルターを通って私たちに見せている。
こと天皇のことに至っては、誰にも事実を確認することは出来ない。
この作品はどこかへ私たちを誘導しているかもしれないってことを誰も否定できない。
史実と違う!ときっと言う人がいる。

ということを踏まえた上で、
私のごくごく個人的な感想を書いておきたい気持ちがあります。

私も日本人の一人で、
この映画の余韻が、
身体にずっと響いているのです。

そういう一人の人の、
殆どが想像で出来た感想です。と、お断りしておきます。


とても、良かったのです。
思いもかけないインスピレーションを得られたという点で。


そして、「とても合点がいった」という言葉が
私の中にあることに気づきます。

そういう感想を持ったことが、不思議でもあります。

映画は、第二次世界大戦の終戦間際を描いています。
が、いわゆる戦争映画のように、テロップが入りません。

戦争映画って、場所の名前や、軍人の名前や肩書きが
入るのが当たり前。そんなものは一切なしです。

説明もなしです。

ナレーションもありません。


ひたすら、ヒロヒトさんの行動、言葉、振る舞い、を追っています。

彼の頭の中の言葉も、まったく出てきません。

だけど、伝わってきます。
あぁ失礼!それは、私の解釈ではありますが、
私が、受け取っているのに気づきます。


口をパクパクする癖がかなり誇張されてはいましたが、
その癖にも、映画を見て、合点が行きました。


彼は、「いやいや、そうじゃなくてね」って、言えないんです。

「あ、そ」としか、言えないんです。


神で居てほしい人たちに、そうであってください!と無言で言われています。

一番偉いのに、命令の中にいます。
自分でさえ、自分に命令していたと思います。

たくさんの「そうじゃなくて!」
という自分のことばを抱えて、飲み込んで、
いたのだろうと想像しました。

口をパクパクもごもごするしかなかった。
実際には、声にならない声で、
何かを脳内で言っていた。

のだろう。


御前会議で意見を申される場面は、美しさを感じました。

明治天皇が大正天皇に伝えた言葉、
それは、和歌のようなことばなのですが、
それを比喩として自分の意見(命令)をします。

この時ばかりは、口をパクパクせずに
言葉にした。ということは、強い主張だと
そこに居並ぶ軍部・閣僚たちは受け取ったと思います。

平和を求めよという強い意思を感じました。
つまり、降伏ということです。


昭和天皇は、戦争中、嘘の情報を聞かされていたと聞いたことがあります。

参謀たちは自分たちが動き易いように、
「あの人にはこう報告しておこう」くらいな扱いを受けていたというワケです。


マッカーサー司令官との食事会の場面。
もしかすると、マッカーサーは、
「この男はちょっと気が触れている。」
「生かしておいても害は無し」とでも思ったのでしょうか。

「神格を手放す」という合意を迫って、取り付けたのだと思います。
その晩、ヒロヒトさんは寝ずに過ごします。

万世一系の天皇家を思えば、
自分が神格を手放す責任の膨大さが分かります。
だけど、彼は、多分、その時、
自分自身の家族を想ったのではないかと想像しました。

何より、妻と子供たち。

そして、もしかしたら、国民。
少し、想像をたくましくすれば、国父という気持ちもあったかもしれません。

あるいは、自分と同じように、
国民の中の、家族という結びつきに思いを馳せたのかもしれません。


香淳皇后がヒロヒトさんの元へ久しぶりに帰った時、
「私はやったよ」「運命を拒否した」と言いました。
そして、皇后の胸に頭を埋めました。


とても若い時に天皇に即位し、
たった一人でその立場を背負い、
戦争を経験し、
味方をもぎ取られ、
だけれども、彼にはまともさが残っていたと思いました。

それは、「愛」というのを知っていたことだと思うんです。

たった一人で天皇職をやっていくときに、
明治天皇、大正天皇、それ以前の天皇たちがどんなことをしていたか、
難しい局面でどんな判断をしてきたか、
に、貪るように答えを求めたのじゃないかと想像しました。

生きていて近くにいる人の中で誰も共感してくれる人は不在です。だって神ですから。

外へ探しても分からなくて、自らの内側へ聴いた時、

自分は、「人間だ」。ってところに帰結したんじゃないでしょうか。


そして、理由は、「愛したい」し、「愛されたい」ってことです。


「愛」だけじゃ足りないんです。欲があります。

人間ですから。「愛情」という、矢印、情動、「わたしとあなた」。

「愛したい」「愛されたい」が、自分自身の中に確かにあることに気づいたんじゃないでしょうか。


だから、私は、神じゃない。

みんなと同じ人間なんだよ。

私は、「愛したい」そして、「愛されたい」それが、何よりの証拠だ。
私が人間である証拠だ。

これは、まったくの私の妄想なのですが、
映画を鑑賞して湧いてきたものです。


侍従長は、ヒロヒトさんの時折みせる「おんなじニンゲンダヨ」に不服そうで、
それに対してヒロヒトさんは、「ま、よかろ」「なんというか、冗談だよ」と言います。

こういう時だって、真っ向から持論を並べることはしない。出来ないです。
それは、大きなテーマに対抗することになるのを知ってるから。
侍従長と議論するのは無駄なのです。

だけど、終戦に当たって、彼は自分自身の思いを優先した。
というふうに見えました。


香淳皇后との関係、子供たちとの関係が実際にはどのようであったか分かりませんが、
その子である現在の天皇陛下の姿を見る時に感じるものがそれを表しているように思うんです。
これは、私だけではないのじゃないかな。
そして、それを引き継いでいる現在の皇太子。


この映画を観る体験を経て、
あくまでも私なりの解釈ですけど、それを前提にしてみると、
この現在の皇室、と言うより、「天皇一家」は、まだ新しい試みの真っ最中なのだと思いました。


神でいて欲しいという勢力もやっぱり近くにいるのだろうと想像します。
抵抗勢力もたくさんいるんでしょうね。
苦悩して当たり前だな。今、試行錯誤を見せてくれている。


戦争というものを、ここまで引いて引いて、つまり
後ろへ下がって見たのは初めてです。

これだけ淡々と見ることで、眺めることで、
見えてくるものがあったように思います。


もっと言ったら、(この戦争は)天皇が神格を手放すために
必要なプロセスであったのじゃないか?くらいまで思いました。


あれだけの影響力のある人物ですから、
それくらいの大きなプロセスがあっても不思議ではないです。大波が起こります。


何か事が起こっている時、
目立つ激しいストーリーに気を取られがちですけれど、
それが行われている大きな大きな背景へどんどんどんどん降りて、
その大きな背景も含めていった時に
見えてくることがあると、「夢の探求」などを行っていて感じます。

取り得る観点として、何か共通のものを感じました。

もう一度言いますけど、
あくまでもこれは、私の解釈です。

そして、映画は、作品です。
殆どフィクションと言ってもいいと思っています。

そして、この新しい観点は、私のものです。
それは、私をしっくりさせているのに気づきます。


いろんな人に見て欲しい作品です。
お勧めします。








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by masumihug | 2018-05-17 23:28 | 所感
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セッションルームのバルコニーの掃除をしています。
デッキブラシ日和です。

ここを、すのこにして、
セッションルームから地続きのようにしたいと思っているのです。

夜は、夕涼みが出来たらいいなと、妄想しています。
夏が楽しみだ!


5月4日みどりの日に「あるがままの探求」を行うことができました。

ご自分の中、深いところへ触れる体験。
そこは、意外と、
温かく、賢く、頼もしい。

場を共にさせて頂きました皆様、
ほんとうに、ありがとうございました。

「私」の中に、確かに「あるがままの私」が居ます。
そして、その存在とは片時も離れたことはありません。

そんな存在に、席を作って、
礼を尽くして、挨拶をして、出会って、対話をしました。

わたしがわたしと和解し、
チームになっていく、つまり、統合のプロセスを
助けるワークとなります。

ゲシュタルトセラピーのセオリーの中で、
トップドッグとアンダードッグというのがあります。

トップドッグは、勝ち犬
アンダードッグは、負け犬です。

自分の中にいる、存在です。

葛藤の一つの形態と言いましょうか。

トップドッグは、四六時中アンダードッグへ偉そうに命令を
しています。

アンダードッグは、負け続けながら、生きながらえています。

ワークの中で、出てくれば、
勝つのは、アンダードッグの方です。
少なくとも、ただの「負け犬」ではないことがわかります。

何故でしょうか?

今回のワークは、こんなこととも関係があります。


また、グループの人たちの存在を感じながら、
ワークが行われることにまた意味があります。

自分自身との対話は、
多くの場合、
たった一人で、
脳内で行われてきた
場合が多いかもしれないと思います。

それは、
孤独感を盛り上げることに一役かう
ことにつながっている可能性があります。

知らずに孤立感を再生産していることもあります。

同じ探求をするグループの中で、
自分自身の探求を行うことは、
自己探求を、さらに社会の中で生きていく個人としての成熟化の
プロセスへつなげていくことになります。

「事実とコンタクトする」ことへ戻る
ことをプラクティス出来る機会とも言えるかもしれないです。

それによって、
「思考」を自分にとって好ましく使っていくことが起こります。

人前でワークをするなんて!と、躊躇のある方は多いかもしれないのですが、
試す価値は大きいです。
大きな恩恵があるはずです。
なので、おすすめしたいのです。
しつこく。笑

あなたのトップドッグは今なんと言っていますか?
アンダードッグはどうですか?


このテーマの探求は、
また是非機会を作りたい!と強く願っております。

もし、ご興味を向けてくださいましたら是非お声かけください。

2名いらしたら開催出来ます。


〜〜〜

6月のご案内をさせていただきます。

これは、私個人のことではありますが、、
この場所を、セッションルームとして1年が経ちました!
有難やです。

そんな節目でもありまして、
6月2日(土)にワークショップを行おうとしております。

ドリームワーク「夢の探求」を行います。

そして、ワークショップ終了後、
ゆっくりまったりシェアの時間に出来たらと願っています。

その夜のシェアだけにご参加というのも歓迎します!!

私の中での勝手なイメージは、「キャンプファイアー」。笑


火を囲んで、話したり、黙ったり、寝っ転がったり、星を見たり。。。

そんな時間と空間をイメージして、どなたかとご一緒できたら
私にとって最高のアニバサリーとなります。

よかったら、おいでいただきたくお誘い申し上げます!!


「夢の探求」ワークショップ

6月2日(土)
10:00~17:00 @藤沢セッションルーム 4000円  定員3名(2名min.)

*「夢の探求」については、
こちらのブログ記事がご参考になるかもしれません。
『夢の探求』ワークショップ

その後、シェアリング
18:30ぐらいから

テーマなどはありません。
キャンプファイアーの如くに過ごせたら。。
参加費少額でも頂けましたら助かりますが、詳細などはまだまったくノーアイデアです。

私としては、これはいつもそうなのですが、
その時の居合わせた人たちの中で起こってくることに任せて行きたいという気持ちです。
来てくださる人がいらっしゃれば、ですが。。汗


〜ワークショップご参加あたってのメモ〜

*自分自身の滋養とする為に探求の機会を求める方の場であれるよう、「気づき・選択・信頼」のゲシュタルトのもっとも根幹をなす三つの要素が発現されるよう、たっぷりの時間とスペースを確保して、ゆっくり丁寧に、またステップを踏んで、プロセスを邪魔をせず辿ってゆける場を作っていきたいと思い願っています。


*ゲシュタルトのワークのご経験のない方は、ご相談ください。事前にゲシュタルトの気づきや、「今ここ」に居る為のプラクティスの時間を設定します。(ご経験のある方でも思い出したい、プラクティスしたいというニーズのある方はぜひ言ってください。)

*このワークショップは治療を目的とするものではありません。

〜〜〜

ではでは、
近いうちにお目にかかれる機会が起こりますように願っております。

いつも、ありがとうございます。







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by masumihug | 2018-05-16 13:16 | ワークショップ

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


by masumihug