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このところ、
続いている事件。

一つの事件からのインパクトがさめやらぬ内に、
次の事件がかぶさって起こって来ている印象があります。

そして、別々に起こっている事件のようであって、
どこか、通底するものがあるようにも
感じています。

ニュースの報道は、従来通りの表現で事件を評価
しているのだけれど、受け取る側、わたしたちは、
もう少し繊細に、知的に、感じ取っているようにも思う。

日本人にはもっと洞察する力があって、
それを思い出しているように感じる。

ただ単に、加害者を、もっと言うと、人を殺した人物を
ただみんなして、断罪するだけでいいのか。というふうに。

その小さな違和感の中に、策がありそうな予感がします。

もちろん、命を奪うことは許されないこと。
ここには、同情の余地はない。
そして、犠牲になった方に対しては、心からの哀悼の気持ちです。
合掌


新幹線の中での殺傷事件の記事を読んでいて、
いろいろなことを思う。

この事件には、
様々な要素が含まれている。
ように思う。

わたしの中に断片がたくさん浮いていて、
そのほんの一部、書いておきたいなぁと思っています。

よかったら、共有させてください。

相変わらず前置きが長いです。


シートを盾に車掌さんが、
加害者に近づいて(ここはさらっと書かれているが、
信じられない程に勇気の要る行為だと思います)

「やめてください」
「話を聴きますから」

と、声をかけたという。

このような、声のかけ方も含めて訓練を行なっているという。
すごく考えられているし、実践的な訓練だと想像しました。

そして、まさに訓練の賜物。
この車掌さんの命がけの場面を想像すると、胸が熱くなります。

そして、
加害者、小島一朗は、もしかすると、
こんなふうに声を掛けられたこと、
人生で、なかったのじゃないか
と想像したのです。

記事には、絶句し、おとなしくなった、とあります。

「対話」というのは、「聴かれて」初めて成り立ちます。

そして、日常で、私たちは、
実はあまり「聴かれて」ないかもしれないです。
この人だけでなく。

ゲシュタルトのワークの中で、
「聴く」という時間を非常に大事にします。

この「聴く」には、
自分が自分を聴くも含まれます。

ワークの中では、
特に、エンプティチェアの場面での対話では、
クライアントの内側にある葛藤の
一方ともう一方にそれぞれ席を作って対話を行うことがあります。

そんな時、
どちらか一方は、
席を作られること、
この世に存在を許される事自体、
が、初めてだったりします。

だから、それだけで、かなり満たされることもあります。

当然、初めて存在が許され、
この世に形を与えられた存在は、
誰かに「聴いてもらった」経験がありません。

はじめ、ことばの表現が苦手です。

ことばを発したことがない。
その機会を与えられたことがない。
長いこと存在をないことにされていて、
だけど、ひっそりと、クライアントの中で
息を潜めるように生きながらえています。

この小島容疑者のことは、よく知りませんが、
実の父親の言葉の断片を別の記事で目にしたところ、
そんな存在として生きてきたようにも想像しました。

そんな存在が、溜まりに溜まっていたエネルギーを放出する機会となりました。
一番、良くない出方です。

人間一人のエネルギーって大きいです。

いくらパッとしない人物だからって、
それは見た目とは関係ないです。

正面から、止めようとしたってもうムリでした。

今回、彼は初めて、
自分自身の禁を破って、
「止める」をやめて、衝動を止めずに、
自己表現を優先する機会になったかもしれません。

これは、小島が、幼い頃からずっとずっとされて来たこと。
を、破った体験になったかもしれません。奇しくも。

その彼の試みに、身体を、貸してくれたのが彼の方。
他の人の安全を守って、小島に機会を提供してくれた。

なんということでしょうね。

このふたりの出会いにも、
なにか、縁を感じます。

あまりに違う二人だけれども。
それは、「一見」であるかもしれないね。

そして、
次は、

止めてください
話を聴きますから

は、新しい関わり方だった。かもしれないと想像します。

そして、
小島の、もしかしたら、心からの願いだったかもしれない。

頭の中では、たくさんおしゃべりしていたかもしれない。
たった一人で来る日も来る日も。

だけど、誰一人として彼を、一人の大人の男性として扱ってくれたことがない。
ダメだ。役立たずだ。と、言われ続けてきたかもしれない。
から、自分も自分を粗末に扱うことしか知らない。
そもそも、それが粗末な扱い方だと知らない。

さあ、話を聴きますと言われて、
彼に何が起こったか、私は知りたい。

目の前の人は、
まさに命を懸けて、
自分に向き合ってくれている。

まさに、座布団が置かれた瞬間だ。
存在が許されていなかった存在が、この世に時間と場所を得た瞬間だ。

彼は初めて、自分が、世界に何を言いたいのか、どんな世界を見たいのか、
が、無いということに気づくかもしれない。

頭の中でやってきた自問自答は、
自分がダメなのか?
社会がダメなのか?
誰のせいなのか?だけだったかもしれない。

初めての自己表現が、殺人になってしまった。
その後で。

あなたの口から何が出てくるのかな。

殺人を実行に移す前に、
殺したい気持ちがあることを、誰かとシェアできていたらよかったねと思う。

それを、聴いてゾッとしない人と出会えていたらよかったと思う。

そんなゾッとすることを口に出せる機会があったらよかったと思う。

その自己表現をダラダラと出来る時間と場所があったらよかったと思う。

その上澄みを、すべて口に出してしまった後に、
一番底のところに、それがある。

そこに、その人の、ニーズの核があると知っている人と、
出会えていたらよかったねと思う。

だから、その人がどんなに恐ろしいことを口にしようが、
付き合ってくれる。

その言葉が出てくるその源泉に、
その人のニーズの核があることを知っている。

そこに触れれば、ひとたび、そこに触れれば、
人は、自分自身を信頼出来ると知っている。

そここそが己だと、わかるから。

とても残念だ。
でも、小島はまだ生きている。

このプロセスが起こる可能性はあると思う。

加害者を排除するだけでは、
片手落ち。

このテーマは、人類全体に横たわっている。

そして、
恐らくは、
小島の胸の奥の奥にあるのは、

俺はここに居る。
誰かとともに居たい。
誰かと、コンタクトしたい。
コミュニケートしたい。

だと、想像する。

恐らくは、生き物すべてが共有している
願いだから。

仮説だけど。

多くの人が、ニーズと解決策を混同していると、
パールズは言っている。

自分自身のニーズを、丁寧に丁寧に
掘っていけば、必ずある。

怒りの下には必ずニーズがある。

なければ、怒りは起こらないんだもの。

上に被っている土や腐った葉っぱや
いろんなものを掻き分けていくのは
自分一人では心細い。

下には何があるか保証はないわけだから。

だけど、一緒に居る人だけでも、
そこに必ず何かある。と、信じていることは出来る。

こんなセオリーが人類にある。

と、私は、信じています。


と、自己表現とコミュニケーションの違いについて、
書こうと思ったのだけど、
そこまで行き着きませんでした。

また、それについては、書きたいです。
大事なことだから。

少しだけ書くと、
自分自身を明確にしていくことで、
初めて、コミュニケーションが優しくまた易しくなる。

そして、自分自身の明確になったニーズを誰かと共有することは、
誰かとのコンタクト、誰かの深い部分にまで届いていく可能性がある。

ということ。

ゲシュタルトの気づきのアプローチは、
こんな領域までカバーします。

ここまで読んでくださって
ありがとうございます。






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by masumihug | 2018-06-19 20:41 | 個人セッション

映画『万引き家族』観た




エンドロールの音楽がいいなぁと思ったら、音楽は、細野晴臣さんでした。
子役の二人はとてもとても上手でした。
もっとも役にはまってうまかったなぁと思ったのは、松岡さんという女優さんでした。

中途半端な描き方に
がっかりしました。

映画は、
テーマも、言いたいことも、別になくていいのだけど、
だけど、映画は少なくとも、人間に敬意を払って、
リアルな人間を描いて欲しい。と、思いました。

最後には、別のテーマの映画になっていたように感じた。

安藤サクラさん演じるのぶよが、意地悪な取り調べ官(なんと池脇千鶴!)から「羨ましかった?産めなくて」って、言われて、矢継ぎ早に次の質問を浴びせて「子供達になんて呼ばれてましたか?」

これに対して、のぶよは、絶句し、涙は意思に反してこぼれて、「なんだろうね。。」「なんだろうね。。」というセリフ。

この演技は、サクラさん自身の素からのもので、一見素晴らしかったのだけど、この子供産める産めないとか云々は、これはこれだけで女性としてはなかなか大きなテーマですから、いきなりこの終わり頃にこんなセリフは、古臭い目線の乱暴な脚本に感じました。

ここは、サクラさんを泣かせるんじゃなく「なんだろうね。。」だったらもっとすっとこの映画のテーマにそったと思う。

今のままだと、ああ、「産めなかったのね」と多くの人はそこに理解を持っていっちゃう。➡︎ヘタすると、単純に「あら、この人産めないんだ。可哀想」へ収束してしまう。ヘタすると、観ている産めない人、産む機会を逸した人、が、こんなところで無防備に事故に遭う。え?そういう映画だったっけ?って。

母でもなく、おばさん、お姉さん、でもなく、明らかに他人だけれども、あの子に私は、強く惹かれた。あの時、私に何が起こっていたのか。これが愛なのか?それとも母性というものか?同情か?私としたことが、そんなことからは私は距離を置いて生きて来たのに。。とか、例えばだけど、もっとここは丁寧に、たくさんの自分自身に起こっていた感情や、本人も正面切って触れたことがない、自分自身の奥に強い人へのニーズがあることに気づく、思いを馳せる場面にして欲しかった。

観ている人にも同時に問いかけることになり、想像と体験をさせる場面になったと思う。
実にここは山場だから、大事に扱いたい。

他人の寄せ集めが家族を作っている。それが出来得る。というのがこの作品の一つの柱だと想像するので。

もう一つ、気になったのは、「死体遺棄は重い罪ですよ」との言葉に、のぶよは、「捨ててません」「捨てられたものを拾ったんです」「捨てた人が他にいるはず」と少し怒りながら言う強いセリフ。

こんな風に、社会に物申す的なセリフを言わせるところが、脚本の幼稚さを感じます。この底辺(と、ここで描かれている)
の人たちは、イデオロギーで生きてるわけじゃない。だから、セリフで説明するんじゃなく、行動や丁寧な演技、演出で見せて欲しい。

映画なんだから、言わずに言って欲しいんです。
そこが、監督の腕の見せ所じゃないかと私は思うんだけど。

民放のドラマみたいでした。

なんのために120分も贅沢に使うのか。
こんな作品でパルムドールでいいのかな。
フランス人は、日本人に少し甘すぎると思うな。

このアイデアでストーリーを作ると決めたなら、ここに描かれている本当にこれを人生でやっている人に敬意を払うように作って欲しい。

本当にこのように生きている人たちは日本にごまんといると思う。そして、こういう人たちはきっと僕の作品を見ないと思ってバレないとでも思ってる?って勘ぐってしまう。ばかにしちゃいけない。

是枝さんのキレイゴト感、家族観の押し付けは毎回感じるけど、今回もだった。

そして、女性へ、幻想の女性を押し付けるのも観ていて心地悪いです。
サクラさんは器用に演じてたから、一見筋が通って見えたけど、自動的に母性を出したり、自動的に欲情したり、を見ると、「ああ、この人も女性をこんな生き物だというところで留まってるのか」と、監督の幼稚さを見せられるようで、作品への信頼を一気に失います。

もっと監督自身がわかるもの、自分のもの、を深めて作品にしたらいい。
自分の、もっと深いところを探ったらいい。
それは、見せたくないの?

人の代弁しなくていいよ。
「あなたが言いたいことこれでしょ?」という感じは、
興ざめします。
違うもん。
そんなに、人ってステレオタイプじゃないです。

それから、リリーフランキーは、最早、リリーフランキーが喋ってるとしか思えない。役をやって、セリフ喋ってるって、思いながら観てしまう。(リリーさん私は好きだけど)

リリーさんはいろんな作品に引っ張りだこで世界的に有名な俳優さんになってしまうけど、俳優じゃないよってテイでやってるうちはよかったけど、これからどうするんだろう?限界じゃないかな。アドリブ時に不要なセリフが多くて気になりました。

安藤サクラさんも上手だけど、彼女を観てると、安藤和津さんと奥田瑛二さんを同時に思い浮かべる。
お!義理のお父さんも出てるね、とか、いらんことばかり考えていました。

すごくおもしろい設定なので、もっともっとご自分の中で大切にエッセンス化して、丁寧に作ったら良い作品になり得るのに残念です。

多分、監督が自分の内側を丁寧に探ってエッセンス化してないから、俳優たちスタッフたちに伝わってない。俳優さんたちは、それぞれ自分の理解で消化するしかなく、分からないから無難なところに留まり、それがバラバラに表現されてしてしまうから結果として全体として矛盾を感じるのかもしれないと想像しました。

錚々たる俳優を集めるのは、勝手にやってくれるから?とも思ってしまうよ。

結局血のつながりがあるのは、おばあちゃんとさやかだけ。さやかの設定はおもしろい!と思いました。

だけど、何でもかんでも盛り込み過ぎ。

実の血のつながりあっても、無理なら、他人が育ててもいい。むしろそのほうが良い。
そして、それは、なにもその子の人生の全部を引き受けなくてもいいのだ。その子は、その子で育つ。その最低限の年齢まで愛的なものをあげられるなら、よっぽど他人で良い。共に居るという意思を持って選択的に誰と居るか決めているのだから。そして、子供は育ちやがて自然に離れる。それでいい。
と、いうふうに私は勝手に解釈した。しょうたが一人バスで帰る場面で。
しょうたくん役の彼は演技で語っていました。作品を理解し、全身でしょうただった。すごい俳優だと思いました。

そして、血のつながりのある家族は、やっぱりどんなにぶっ壊れていようとそれがその家族の形なんだと私は思います。そこで血が流れるかもしれないけど。そして、安全で冷静な所にいる他人が、この映画の寄せ集め家族を見て、諸手を挙げて万歳する姿は、まさに、現実の汚いものをないことにすることに一役買うのです。それは、よっぽど恐いことだ。

この家族だってしょうたによって分解することになったんです。やっぱり絵空事は絵空事だとしょうたの中のまともさはわかっていたように思いました。ここだけは、現実的。しょうたはいつの間にか、生きるのに必要なたくましさや自分の感覚を信頼する強さを身につけていました。

だから、蛇足なのは、社会への問題提起的な部分。
そこを除去したらきっともっといい。

映画を観てこんなに文句を言うことは滅多にないです。




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by masumihug | 2018-06-15 03:05 | 所感
これは、2月に書いた記事なのだけど、
もう一度、投稿したくなりました。

よかったらご覧くださいませ。



成長だとか、
変化だとか、

というのがあるとするならば、、

と、書き進めようとしつつ、「成長」という言葉で引っかかることが
あるので、書きます。

世の中で使われている「成長」という言葉は、
なにかここで私が使う時に適切な好ましい感じがないのです。

「成長」って言葉が、悪いのではなく、
「成長」という言葉に、何か人々の「考え方」がくっついている、
ように思うので。

くっついている手垢のようなものが、ここで使う時に好ましくないと、感じるのです。

だけど、他に良い言葉が見つからないので、手垢なしのただの「成長」という意味で
捉えて頂けたらと思います。或いは、単に「変化」でも良いのかもしれません。

少し、落ち着きました。

戻りますね。

「成長」「変化」っていうのがあるとするならば、

わたしの好きなゲシュタルトのせんせーの表現によれば、

それが起こる場所は、

「何か」との向き合い方や、
向き合う質、
「何か」に気づく時のその質です。

と、聞きました。

あぁ、まさにそうだと、腑に落ちました。

「それ(気づいている対象)」と、
いま、わたしは、
どんなふうに、向き合ってるか?
或いは、つき合っているか?

「それ」に気づく時、
どんな質で気づいているか?

「それ」自体は、実際のところ一切変わりはないワケで。。

だけど、

「それ」と「わたし」の
(心理的/物理的)距離や、

「それ」に気づいた時の
わたしの姿勢や、
わたしの表情や、

その時の、
感情や、

興味、好奇心、

体の感覚や、呼吸の仕方。

が、(いつかの時点と今で)変化していたとしたら、

プロセスしています。何かが起こっています。

そのプロセスを、
「成長」とか「変化」と、
表現したくなるかもしれません。
あるいは、「成熟」と呼ばれるものです。

「それ」とは、

あなたにとっての、
何か過去の、「思い出すのもおぞましい」と思っていたエピソード。
だとか、
ある特定の人物の名前が入ってくるかもしれない。
何か、概念かもしれない。

或いは
もしかたら、自分自身のある特定の「状態」かもしれない。

そして、
「それ」自体をなくそうとすることや、
「それ」をどうやって避けるか、やっつけるか、
勝つか?
手なづけるか?
に、長年腐心してきたかもしれません。

世の中にそういったHOW TO本が、ごまんとあります。
「それ」と戦おうと、する系ですね。

「それ」に働きかけるやり方。「それ」の方を変えようとするやり方。

もしかすると、
知らず知らずに「それ」自体に、
いたずらに力を持たせる努力になっていたかもしれません。

それによって、
誰か知らない本を書いた人が一儲けするのを助けている。
誰か知らないライターさんの生活を援助している。
かもしれない。
ってことに気づきが拡がっている自分に気づくとしたら、
これも、また、変化。と、言える。

人生の中に、いろんな「それ」があって、
「それ」の方を出っくわす度にやっつけなくてはならないのは
とても疲労する。

実は、「それ」には、一つ一つ個性がある。

「それ」を変えるんじゃなしに、

一つ一つの「それ」の顔を見てみる。
自分の「目」を使って見てみる。
自分自身の体験を使って、出会ってみる。

想像の中で「それ」について考えていることから
出て。

コンタクトしてみる。

ただ、目を開けて、
ただ、対象を見る。

それが、起こっているのに気づくかもしれません。

それを許していると、
身体に衝動が起こっていることにも気づいてくるかもしれません。

もう、止めていない自分に気づくかもしれません。
その衝動をどうするか、も、選択ですが、
その衝動とも一緒に居ることが出来る自分にも気づくかもしれません。


「想像」の中で「それ」について考えている
「それ」と直接会う

そんな実験が出来るのが、ゲシュタルトのセッションの場。
と、言えると思います。

そして、そんな時を迎えている方が
セッションにいらしてくださるのだなぁと思うときがあります。

人生を重ねなければ、向き合えない「それ」もあります。

言い換えたら、
人生を重ねたから、いま、向き合えている。と、言えることがあります。

そして、
その「向き合い方」というのは、
どこかで止まるワケではなく、
やっぱり、プロセスし続けるものなのだと思います。

で、それに気づく時、
今までも、「プロセスし続けていた」少なくとも「プロセスしようとしていた」
或いは、「プロセスを止めていた」
と、気づくのだと想像します。

世の中で変化しないものなど多分なく、
もし「止まっている」のなら、
誰かが「止めて」います。

だけど、「止める」にも、理由があります。
その必要がある時があります。
そのようにして、自分自身の身の安全を守っています。
何より身体は、「生命維持」を最優先します。

だから、今までの向き合い方を否定するわけじゃありません。
敬意を払いたいです。

その上で、新たな向き合い方を選択肢として付け加える
実験をしているのです。

或いは、
何かと共に居る力
自分自身の体験を許し、体験と共に居る力
を、確かめる実験でもあります。

それは、
自分が自分を信頼していく
プロセスとも言えるかもしれません。


そんなプロセスが動き出すとき、
サポートが必要です。
また、プロセスに時間を渡すことも。
また、安全を確認出来る環境が必要です。

必要なのはアドバイスではなく、
何も捻じ曲げずに、あなたを正確に映し返す鏡です。

「成長」って、居心地が悪いものなんです。
不安定なんです。
あえて、不安定を作り出すようなもんです。

だから、サポートが必要です。
人のカラダはそれを知っています。

サポートが見つかると、自ずと、
「止める」を止めるが始まるんですね。

そういうメカニズムは、自然なんですね。

そう信じています。

すべては、動き続けています。

わたし自身の経験からも、そう信じています。

すべての、大人になってからの自分自身の成長を許す人に
その勇気に、幸あれ!と、心から言いたいです。
それが、「成熟化」というものだと思っています。

ありがとう。







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by masumihug | 2018-06-07 13:50 | 読んでほしい記事

わたしを知って、わたしを生きる。神奈川県藤沢市にて、心理セラピーを行っています。ホームページこちらです。 https://kiku-therapy.jimdo.com/


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